石田三成の実像3159  白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」3「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」の内容解釈2 豊臣公儀との対決姿勢は見られず、「内府ちかひの条々」を出されて弾劾された家康の当時の苦境を物語る

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その最初の部分についての内容解釈を、拙ブログで紹介しましたが、その続きです。白峰氏の同論考では、最初の部分について、藤井讓治氏の解釈も紹介され、その違いについても述べられていますが、それは省略します。最初の部分に続く記述について、次のように解釈されています。
 「『上辺之儀』(=京都・大坂における軍事的動向)については(家康が)確かに聞き届けられたうえで、『様子』について(今後、家康方諸将に対して家康が)仰せ出される予定である旨を(家康が)仰せられた」と。
 文中の「様子」について、白峰氏の前稿では、「上杉討伐の延期」と解釈したものの、藤井氏の論文では、「無理な解釈で」あると批判されたので、藤井氏の解釈に従い、「この場合は、マクロな意味での『今後の状況』(具体的には、豊臣公儀と対決姿勢をとるのかどうかという基本方針)という意味」だと訂正されています。その解釈の変更の根拠として、「『日葡辞書』によれば、『様子(ヤゥス)』とは『事件・事柄のありさま、または、成行きの状況』」という意味であることも挙げられています。
 こういうことから、この部分について次のように結論づけられています。
 「『上辺之儀』を家康が(今後)確かに聞き届けたうえで、今後の状況(=豊臣公儀に対する今後の対応方針)を家康が決める、と言っているだけで。豊臣公儀(石田・毛利方)との対決姿勢(決戦姿勢)は見られず、軍事的には、はたはだ消極的姿勢であると言わざるを得ない。
 この状況が『内府ちかひの条々』を出されて弾劾された家康の当時の苦境を物語っている」と。
 7月17日に「内府ちかひの条々」が豊臣三奉行の名で出され(三成はこの時点では奉行に復帰していないものの、この弾劾文作成に大きく関わっていたと私は見ています)、毛利輝元・宇喜多秀家も賛同していましたから、二大老・三奉行による新たな豊臣公儀体制が発足していました。
 「浅野幸長書状」に記されている状況は、7月23日の出来事だと、白峰氏は想定されているので、「内府ちかひの条々」がこの時点でもし家康に届いていたとすれば、家康は公儀性を奪われて苦しい立場に立っていたものと思われます。7月23日の出来事だと推定されている根拠として、「家康書状にはじめて上杉討伐の延期が記されるのが『7月23日付最上義光宛徳川家康書状写』であり、家康書状にはじめて家康の上洛に関する言及が記されるのが『7月23日付山崎家盛・宮木豊盛宛徳川家康書状写』である」ことが挙げられています。
 「浅野幸長書状」の上記の記述について、藤井氏は諸将の西上に関して、「いつ、どのような手順でなされるのかの判断が家康に求められ、その決定がなされるまでの手順を示した」と解釈されているものの、白峰氏はこの時点では「家康は豊臣公儀(石田・毛利方)との対決姿勢(決戦姿勢)を打ち出せなかった」と反論され、この書状に諸将の西上について何も記されていないのがその証だと指摘されています。
 

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