石田三成の実像3162「関ヶ原大乱、本当の勝者」159 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」17 秀秋の死因は酒の飲みすぎ・「偉人たちの健康診断」でアルコール性肝硬変だと指摘

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の小早川秀秋について、次のように記されています。
 「宇喜多秀家に代わり、備前・美作に57万石を与えられ、岡山城(岡山市北区)に入った。破格の扱いである。秀詮(ひであき)と名を変えた秀秋は、寺領の寄進や安堵、家臣への新知の割り当てなどを行った。しかし、その後の秀秋の運命は暗転した。翌慶長6年、家臣団の軋轢もあって、重臣の稲葉正成が小早川家を出奔する。
 慶長7年(1602)10月、秀秋は鷹狩の最中に体調を崩して急死したが、後継者となる子はいなかった。これにより、小早川家は無嗣断絶によって、改易処分を受けたのである。その死因については、秀秋の裏切りによって敗死した大谷吉継の祟りであったといわれているが、それは俗説にすぎない。実は、酒の飲みすぎが原因であるさとれている」と。
 秀秋の死因については、NHKの番組「偉人たちの健康診断」で、アルコール性肝硬変だと指摘されていました。それを示すものとして、死の前年の秀秋の病状についての、曲直瀬玄朔の「医学天正記」の記述が挙げられていました。すなわち、「全身が黄色くみぞおちの下が硬く腫れて痛みがある」と記述され、その原因についても「酒疸」(酒による黄疸)と記されていると。アルコール性肝硬変は、10年以上、毎日のように大量の酒を飲み続けることで発症すること、秀秋は7才の時に元服し、秀吉の養子となって後継者候補に指名されたことによって、各大名から酒の接待を毎晩のように受けていたこと、秀頼が誕生し秀秋が小早川家に養子に出されたあとも酒が止められずアルコール依存症になっていたこと(「酒盛りばかりしていた」という「足守藩主 木下家資料 系図」の記述が取り上げられていましたり)こと、関ヶ原の戦いの際は錯乱を引き起こす肝性脳症になっていた疑いがあること(伏見城攻めの後、宇喜多秀家や三成の誘いや命令を断り反抗的な態度を取ったのも、その後に各地を転々としていたのも、戦いの前に鷹狩りをして楽しい気分になっていたのも、肝性脳症による意識障害の表れかもしれないと)、さらに脳の海馬が萎縮し、関ヶ原の戦いの際は正常な判断ができなくなっていたのではないかということなど。
 関ヶ原の戦い前後の小早川秀秋の行動と病気のことを関連づけるのは、強引だと思いました。番組でも述べられていたように、小早川隊の動向を決めていたのは、2人の家老でしたから、秀秋の意思だけで行動を取ることができたのでしょうか。関ヶ原の戦いに至るまでの秀秋の行動については、通説通りなのか、一次史料を含めて改めて検証し直す必要もあります。
 2人の家老とは、稲葉正成と平岡頼勝ですが、2人とも家康方と内通していましたから、関ヶ原の戦いの際に最初から家康方についたのは、当然のなりゆきだったと言えます。関ヶ原の戦いの勝利に大きく貢献したその稲葉正成が、秀秋のもとを去ったというのは、よほど我慢しきれないことがあったのか、秀秋に愛想を尽かしたからでしょうか。
 

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