石田三成の実像3345 白峰旬氏「『歴代古案』収載の『内府ちかひの条々』についてー上杉版『内府ちかひの条々』に関する若干の考察」10 宛所についての考察4 家康を豊臣公儀から放逐する動きが進行していることを、上杉景勝に対して事前かつ早急に知らせる目的
白峰旬氏の論考「『歴代古案』収載の『内府ちかひの条々』についてー上杉版『内府ちかひの条々』に関する若干の考察」の中で、上杉版「内府ちかひの条々」は、通常版「内府ちかひの条々」の発布の前に、上杉景勝に送られていたという見解を白峰氏は示され、さらにいろいろな推測がされていますが、その続きです。
「上杉版『内府ちかひの条々」が『歴代古案』にのみ収録されている理由(つまり、上杉家だけに伝存している理由)は、通常版『内府ちかひの条々』が出された7月 17日よりも前に、豊臣政権(=石田・毛利連合政権)から上杉景勝に対してのみ、オリジナルバージョンである上杉版『内府ちかひの条々』が送付され(この時点では通常版『内府ちかひの条々』はまだ作成されていなかった)、これからこういうものを宛所になっている諸大名に送付予定である、と事前に報告された(よって、案文であるため上杉景勝に対して送付されてきた上杉版『内府ちかひの条々』にはもともと石田三成と増田長盛の花押はなかった、と思われる)、と推測できる。(中略)
上杉版『内府ちかひの条々』送付の背景には、慶長5年7月の時点で、家康による上杉討伐が間近に迫っている状況の中、豊臣政権(豊臣公儀)として家康を弾劾して反家康の挙兵をする証拠(上杉版『内府ちかひの条々』)を石田三成と増田長盛が上杉景勝に送付することによって、家康の上杉討伐発動前に、家康を弾劾して豊臣政権(豊臣公儀)から放逐し、家康の上杉討伐を政治的に不発に終わらせる動きが上方(豊臣政権)で進行していることを、上杉景勝に対して事前かつ早急に知らせる目的があった、と考えられる。
そのように考えると、宛所に上杉景勝が入っていない上杉版『内府ちかひの』が上杉家にのみ伝存した理由が整合的に理解できる」と。
「歴代古案」に収められている上杉版「内府ちかひの条々」の存在を知ったのは、拙ブログで前述したように、10年前の桐野作人氏の講演会によってでしたが、宛所にたくさんの武将の名が記されている中にあって、肝心の上杉景勝の名がないのはなぜなのか、いつ景勝に送られた書状なのか、などの疑問を抱いてきましたが、白峰氏の今回の見解を知って、その疑問が解けるような気がしました。
白峰氏は「厚狭毛利家文書」の毛利輝元書状を検討することによって、6月上旬の段階で、「石田三成・小西行長などの毛利輝元に対する出陣要請にもかかわらず、この時点では、いまだ毛利輝元は、家康に調略をおこなって上杉景勝との和解(つまり、家康が上杉討伐を発動しないこと)を画策していた」と指摘されています。家康が上杉攻めを決行し、大坂城から出陣するのは6月16日のことですが、白峰氏の見解に従えば、その前の段階で、三成らは上杉攻めを強行しようとしている家康に対して挙兵する準備を調えていたことになります。まだこの段階では、毛利輝元は和解の道を探っていたことになりますが、輝元は家康が上杉攻めに踏み切ったことによって、和解を断念し、三成らと同調することを決めたのかもしれません。それはともかく、三成がかなり早い段階で、反家康連合を作ろうとしてしたことがうかがえます。
さらに上杉版「内府ちかひの条々」の存在から、三成は奉行衆や輝元らの同意を得て、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」を発し、家康を排除した形での新しい豊臣公儀体制が発足したこと諸大名に知らせ、広く賛同を求めようとしていたこともわかります。
「上杉版『内府ちかひの条々」が『歴代古案』にのみ収録されている理由(つまり、上杉家だけに伝存している理由)は、通常版『内府ちかひの条々』が出された7月 17日よりも前に、豊臣政権(=石田・毛利連合政権)から上杉景勝に対してのみ、オリジナルバージョンである上杉版『内府ちかひの条々』が送付され(この時点では通常版『内府ちかひの条々』はまだ作成されていなかった)、これからこういうものを宛所になっている諸大名に送付予定である、と事前に報告された(よって、案文であるため上杉景勝に対して送付されてきた上杉版『内府ちかひの条々』にはもともと石田三成と増田長盛の花押はなかった、と思われる)、と推測できる。(中略)
上杉版『内府ちかひの条々』送付の背景には、慶長5年7月の時点で、家康による上杉討伐が間近に迫っている状況の中、豊臣政権(豊臣公儀)として家康を弾劾して反家康の挙兵をする証拠(上杉版『内府ちかひの条々』)を石田三成と増田長盛が上杉景勝に送付することによって、家康の上杉討伐発動前に、家康を弾劾して豊臣政権(豊臣公儀)から放逐し、家康の上杉討伐を政治的に不発に終わらせる動きが上方(豊臣政権)で進行していることを、上杉景勝に対して事前かつ早急に知らせる目的があった、と考えられる。
そのように考えると、宛所に上杉景勝が入っていない上杉版『内府ちかひの』が上杉家にのみ伝存した理由が整合的に理解できる」と。
「歴代古案」に収められている上杉版「内府ちかひの条々」の存在を知ったのは、拙ブログで前述したように、10年前の桐野作人氏の講演会によってでしたが、宛所にたくさんの武将の名が記されている中にあって、肝心の上杉景勝の名がないのはなぜなのか、いつ景勝に送られた書状なのか、などの疑問を抱いてきましたが、白峰氏の今回の見解を知って、その疑問が解けるような気がしました。
白峰氏は「厚狭毛利家文書」の毛利輝元書状を検討することによって、6月上旬の段階で、「石田三成・小西行長などの毛利輝元に対する出陣要請にもかかわらず、この時点では、いまだ毛利輝元は、家康に調略をおこなって上杉景勝との和解(つまり、家康が上杉討伐を発動しないこと)を画策していた」と指摘されています。家康が上杉攻めを決行し、大坂城から出陣するのは6月16日のことですが、白峰氏の見解に従えば、その前の段階で、三成らは上杉攻めを強行しようとしている家康に対して挙兵する準備を調えていたことになります。まだこの段階では、毛利輝元は和解の道を探っていたことになりますが、輝元は家康が上杉攻めに踏み切ったことによって、和解を断念し、三成らと同調することを決めたのかもしれません。それはともかく、三成がかなり早い段階で、反家康連合を作ろうとしてしたことがうかがえます。
さらに上杉版「内府ちかひの条々」の存在から、三成は奉行衆や輝元らの同意を得て、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」を発し、家康を排除した形での新しい豊臣公儀体制が発足したこと諸大名に知らせ、広く賛同を求めようとしていたこともわかります。
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