石田三成の実像2761 中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」4 三成引退後の政局

2日に米原市観音寺の三成ブックカフェで行われた中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」の中で、秀吉死後の政治闘争について、石田三成が佐和山に退いた後、前田派VS家康派・三成派という構図が生まれたという指摘があるものの、良質の史料にはないので検討の必要があると述べられていました。
 この点について、三成が家康側に付いたことを示すものとして、カンハンの「看羊録」に、前田利長を牽制するために、三成が家康に命じられて越前に出兵したという記述があります。「看羊録」は日本の捕虜となったカンハンが記したものであり、その記述内容をそのまま鵜呑みにしてはいけないと中井氏は指摘されていました。確かに、「看羊録」では利長が家康を殺そうと企てていることを密告したのは三成ということが記されていますが、実際に家康暗殺計画はなかったということや家康の前田攻めはなかったということを大西泰正氏は指摘されているので、「看羊録」のその記述は多分に疑わしいと云えます。ただ、三成が前田家を牽制するために出兵したことについては、日本側の史料である島津家文書、細川家文書、前田家文書にも記されているので、それは事実だと思われます。問題は三成が家康の要請に応じたのは、本当に家康側に立っていたのか、擬態だったのかは、今後検討すべきことだと云えます。
 また中井氏の講演会では、大谷吉継については、佐和山に退いた三成と入れ替わり、奉行衆に参加し、家康主導の政権で行政を担っていると述べられていました。
 家康が利長と不和になった時、大谷吉継の息子の大学助が、三成と同様、越前に出兵したという記述が、上記の日本側史料にあり、史実だと思われます。また宇喜多家の内部でお家騒動が起こった時、大谷吉継と家康の家臣の榊原康政が仲介を画策しますが、うまくいきませんでした。結局、家康の仲介により、一旦収束しますが、吉継が仲介に動いたのは、家康の意向を受けてのものです。こういうことからすれば、吉継が家康主導の政権で行政を担っていたのは明らかであると云えます。
もっとも、家康主導の強引な政権運営に関して、吉継がよしと思っていたかどうかについては、さらなる検討が必要だと思われます。吉継の立場としては、豊臣政権の維持を第一に考えていたはずで、家康がその線に添う限りは、奉行としてその意向に従って動いていこうと思っていたことは事実だと考えているのですが。それは三成も同じではなかったかと。

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