石田三成の実像2917 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」13 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」11 家康は上杉氏の返答を待つことなく出陣の意向を表明していたという見解2

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康は上杉景勝の返事いかんにかかわらず、上杉攻めをする予定だったという見解が述べられていますが、それを示すものとして、慶長5年(1600) 5月26日付と推定される浅野長政宛浅野幸長書状も挙げられ、その内容について、次のように記されています。
 「①景勝が7月中に伏見へ上り、8月1日に豊臣秀頼に伺候すること、②6月20日に兼続の妻子が江戸へ人質として赴くこと、を要求する書状を携えていたという(『坂田家文書』)」
 「幸長書状によると、家康は上杉側の返答にかかわらず江戸までは軍勢を率いて下る予定であるという」と。
 そして、これらの史料から次のように指摘されています。
 「すでに前田利長からは人質を徴収し、家康が軍事行動を躊躇する理由はなかった。諸大名に軍役を課し彼らを指揮することや、上杉景勝を軍事行動により屈服させたという実績を家康は必要としたのであろう。会津征討は上杉氏の対応に関係なく、家康の思惑によって強引に導かれた回避不能のものであったといえよう」と。
 この水野氏の見解は、妥当なものだと考えています。家康は豊臣公儀という名のもとに、諸大名を動員して、なんとしてでも上杉氏を屈服させたかったのであり、それは家康の政治的な力を強めることにつながりました。ですから、上杉攻めの途中に、上方で自分に反旗を翻す動きが起ころうとは、家康は思っていなかったはずであり、そのことについても、水野氏の同書で改めて論じられていますので、改めて後述します。われわれは結果だけを知っていますから、家康は三成らが挙兵するのを見越して、大坂城から東に動き、彼らの挙兵を誘い出し、関ヶ原で一挙に敵対勢力をつぶして、天下を取ったのだと考えがちです。しかし、細かく一次史料を見て行けば、三成らの挙兵は家康にとっては、想定外のことであり、しかも白峰氏が指摘されているように、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が三奉行によって出され、家康が公儀性を奪われ、二大老・四奉行による新たな豊臣公儀体制が構築されようとは思っていなかったはずです。
 また関ヶ原の戦いを家康と三成の対立で捉えようとしがちですが、これも間違いです。三成はあくまで豊臣公儀の一員であり、豊臣公儀軍と家康主導軍(白峰氏の命名)の戦いというのが実際の姿でした。それを三成を首謀者とする徳川史観の影響で、家康に反旗を翻した責任は三成一人にあるとする見方が形成され、その結果、三成は人望がなかったとか、三成の横柄な態度に問題があったなどと個人攻撃の対象にされ、それが関ヶ原の戦いの敗因になったと捉えられてきました。こういう通説は、見直すべき時期が来ているように思います。

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