石田三成の実像2953 高橋陽介氏「本多隆成氏の『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』を拝読して」4 疑問点の三点目・四点目

 高橋陽介氏の「本多隆成氏の『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』を拝読して」(織豊期研究会発行「織豊期研究 第22号」に掲載)の中で、白峰氏と本多氏の小山評定に関する議論について、高橋氏は疑問点を4点挙げられていますが、その3点目として「福島正則はどこで家康書状を受け取ったのか」という点が挙げられています。
 白峰氏は「福島正則は7月19日以降に小山付近で受け取り、江戸に呼び戻された」としているものの、高橋氏は「福島正則がこの時期、小山周辺にいたことをしめす一次史料は存在しない」と指摘されています。その上で、大久保彦左衛門が記した「三河物語」、7月29日付の浅野幸長書状、7月19日付の福島正則宛徳川家康書状写を根拠として、「福島正則の人数は駿河から領国へ帰還したと考えるのが自然である」とし、「福島正則は駿河から江戸へ呼び寄せられたものであるとは考えられないか」と指摘されています。
 福島正則が家康書状を受け取ったのは、小山なのか、駿河なのか、今後よく検討する必要があると感じます。
 疑問点の4点目として、「家康はなぜ福島正則に西上を命じたのか」という点が挙げられ、「家康は上方で異変があったことを知り、その動きに対応するため、稲葉通孝・福島正則らに西上を命じたとは考えられないか」と指摘されています。
 いわゆる「西軍」(白峰旬氏の説によれば、石田・毛利連合政権、すなわち二大老・四奉行による新たな豊臣公儀軍)が、7月15日に加藤清正、17日に松井康之を味方に引き入れようとし(高橋氏はそのことを示す史料として、それぞれ7月15日付の加藤清正宛毛利輝元書状写、7月17日付の松井康之宛三奉行連署状が挙げられています)、さらに福島正則も味方に引き入れるようにしていたと、高橋氏は主張されています。そのことを示す史料として挙げられているのは、8月5日付の真田昌幸宛石田三成書状の「福島正則とはただいま交渉中であり、成立すれば三河表へ打ち出す」という記述です。高橋氏は「西軍からの誘いをうけた稲葉通孝・福島正則はそのことを家康に報告し」、家康はそれを受けて彼らに西上を命じたのではないかという見解を示されています。
 8月5日付の石田三成書状の「福島正則とはただいま交渉中」という記述については、事実であると思われます。それが証拠に、実際、三成ら豊臣公儀軍は正則の居城である清須城を攻めていませんし、三河方面にも向かっていません。三成らは、福島正則が豊臣家恩顧の武将なので、自分たちに味方してくれるのではないかと踏んでいたのではないでしょうか。三成らの状況判断が甘かったとも云えますが、豊臣公儀軍としては、豊臣恩顧の武将に働きかけをするという手法自体は間違っていなかったという気がします。あくまで秀頼を推戴している政権なのですから。福島正則が三成憎しで家康側に就いたというのも、まことしやかに言われるものの、根拠は乏しいという気がします。豊臣七将による三成らに対する訴訟騒動(三成襲撃事件はなかったとするのが水野伍貴氏・白峰氏の見解です)の際、福島が訴える側に加わっていたのは確かですが。

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