石田三成の実像2954 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」13 大坂夏の陣で徳川方として加わる

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、大坂夏の陣の、慶長20年5月6日に行われた八尾・若江の戦いに、徳川方として戦ったことが記されていますが、この戦いの記述についてまず次のように解説されています。
 「本城惣右衛門は、藤堂高清(『与右衛門殿』)(高虎の異母弟)の指揮下で大坂夏の陣(八尾・若江の戦い)に参戦したことがわかる。ただし、藤堂高清の家臣であったのか、或いは、大坂夏の陣の時だけ藤堂高清の指揮下に属したのかはよくわからないが、(伏見城攻めの)記載の末尾に本城惣右衛門の仕官の話が出てくるので、大坂夏の陣の時だけ藤堂高清の指揮下に属して戦った可能性が高い」と。
 伏見城攻めの末尾の記載については、白峰氏の同書で、次のように解説されています。
 「『木▢(※上の『木』と合わせて『枩』という『松』の異字体か?)ちうじやうさま」(=中将様=松平忠直)の申し分はかたじけないので、万事すぐに出仕した』と記されており、松平忠直(越前国福井藩主)が左近衛権中将になるのは元和元年閏6月なので、大坂夏の陣よりあとに本城惣右衛門が松平忠直に仕官したという上記の想定と、時期的には符号している」と。
 これまでの本城惣右衛門の行動をまとめると、明智光秀が丹波攻めをしていた時は、敵対していたものの、惣右衛門が指揮下に入っている赤井忠家が光秀に降伏すると、光秀軍に属し、本能寺の変の際にも、信長を討つ軍勢に加わっています。光秀が秀吉に敗れた後は、秀吉方に属し、紀州攻めの際は豊臣秀長の指揮下に入り、三成らが家康に対して挙兵し、家康を排除した二大老・四奉行による新たな豊臣公儀が樹立した時には、奉行の増田長盛の指揮下に入り家康の老臣の鳥居元忠のこもる伏見城を攻めています。家康が天下を握り、豊臣家の大坂城を攻めた時には、徳川方の藤堂高清の指揮下に入り、その後、松平忠直に仕官するわけです。惣右衛門は、時代の変遷を目の当たり見ていたことになります。
 本城惣右衛門が、本能寺の変の後、秀吉方に属してから、慶長5年の伏見城攻めまで15年余りに及びます。前述したように、覚書にも、伏見城攻めについての記述に、豊臣秀頼と徳川家康の戦いであると記されており、自分たちは豊臣公儀軍と認識していたふしがありますから、その15年後に今度は秀頼の大坂城を攻める側に回ったわけですから、豊臣家に対するなにがしかの思いはあったのではないでしょうか。むろん、戦国時代を生きてきた武将ですから、主家が変わることにはそれほど抵抗がなかったということも考えられますが。
 

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