石田三成の実像2990 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」33 本間宏氏「上杉景勝の戦い」13 越後一揆に対する兼続の指示・旧領奪回の意図はなかったとする見解をめぐって

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、直江兼続が越後一揆に対する指示を与えていることについて、次のように記されています。
 「兼続は7月28日以降、若松にいる山田喜右衛門尉(秀次)に対して、越後一揆に関する指示を連日のように下している。8月4日の書状では、一揆は堀氏の領内に限定し、豊臣政権側である村上氏と溝口氏の領内は対象外とすること、軍勢を新たに送る必要はなく、成り行きに任せるべきことなどを伝えている(『8月4日付直江兼続書状写』【新潟県氏】)。越後一揆とは旧上杉氏領の奪回を意図したものではなく、会津防衛のための策動だったのである」と。
 「越後一揆とは旧上杉領の奪回を意図したものではなく、会津防衛のための策動だったのである」という見解については、それを裏付ける史料として、8月25日付上杉景勝書状の中の次のような文言があります。
 「④越後の件は、堀氏が家康の一味と思われたので一揆を申し付けたが、秀頼様に忠節をつくすよう仰せ付けられたとのことなので一揆も静まった無。溝口と村上は、もともと秀頼様に敵対する意思はなかった」と。
 この書状は、「景勝の関東出兵を求める二大老・四奉行(毛利輝元、宇喜多秀家、長束正家、増田長盛、石田三成、前田玄以)への返書案」であり、この書状で新たな豊臣公儀に従う旨を景勝は表明しており、越後一揆も上杉攻めの家康に対抗するものだと弁明しています。
 こういうことからすれば、旧領の越後で一揆を起こしたのは、旧領回復を目指したものではないということになりますが、前述したように、三成も越後に一揆を起こすようにと兼続に宛てて書状に記していることからすれば、この時点では堀氏の領国をかき乱すことが目的であったとしても、豊臣公儀側が家康に勝てば、将来的に越後回復も十分ありうると上杉側も考え、三成もそれを了承していたとは言えないでしょうか。
 白峰氏は慶長5年の、関ヶ原の戦いを含めた国内の長期にわたる争乱状態を、「惣無事令体制の崩壊による公然たる私戦の復活」と捉えられていますが、確かに、家康が豊臣公儀の名を借りて上杉攻めを発動した時点で、秀吉の「惣無事令」が有名無実なものになってしまったと言えます。むろん、「惣無事令」は国内での私戦を禁ずるものであり、上杉攻めは公戦という立場を家康は取っていましたが、実際は私戦の復活を公戦という名前の下で始めようとしたのでしょう。三成や大谷吉継をはじめとする反家康側も、家康のそういう意図を察したからこそ、家康に反旗を翻し、二大老・四奉行による新たな豊臣公儀体制を作りました。これによって、「惣無事令」は完全に崩壊し、各地で争乱状態になったわけです。

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