石田三成の実像3105 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」117 大西泰正氏「前田利長の戦い」10 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」14 利長は浅井畷で会戦・吉継は北庄城へ進軍・8月1日付の青木一矩宛三成書状

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、8月3日、大聖寺を攻略した後の利長の動きについて、次のように記されています。
 「そのまま加賀、越前の国境を越えたが、伏見落城と越後における一揆の蜂起を知って軍勢を引き返した(『前田育徳会所蔵文書』ほか)。金沢城に戻る途上にあった8月9日、小松城主丹羽長重の軍勢に襲われ、浅井畷(石川県小松市)に会戦している」と。
 一方、この間の吉継の動きについては、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、次のように記されています。
 「吉継軍は海路今泉に至り」、8月2日付で今泉に禁制を発し、「今泉から越前府中に至る街道」を通って、「越前府中城に迫った可能性がある」ものの、「吉継は、府中城を攻めることなく通過し、青木一矩が守る北庄城(福井)に進軍したようだ」と。
 吉継が北庄城に進軍した理由について、外岡氏の同書では、大聖寺城を落とした「利長が越前に侵入するのは時間の問題であった」こと、「青木一矩の臆病」が挙げられています。一矩の臆病さに関しては、「7月28日、青木が利長の動きを報じるとともに、おそらく支援を求めたのであろう」こと、「これに応えた石田三成の書状には、伏見城落城間近との報を載せ、事態が切迫すれば三成自身が駆けつけることを約し青木を励ます文言がみえる(『8月1日付石田三成書状』『越前若狭古文書選』)」こと、「敦賀に到着した吉継にも飛脚を送り、援軍を得られないままに北庄城に利長が迫るようなことがあれば、守備を放棄し上洛すると伝えてきたともいう(『慶長見聞書』)」ことが挙げられています。
 8月1日付の青木一矩宛石田三成書状については、白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース(補遺)[その2]」に掲載されており、その内容について次のように記されています。
 「去月(7月)28日の飛札が今日(8月)朔日に着き、大坂で披見した。(石田三成は)昨日(7月晦日)に大坂へ着いた。小松方面の状況を了解した。(豊臣公儀では)各自が相談して、小松、大聖寺、丸岡その他へも(豊臣公儀から)御加勢をおこなう予定。(豊臣公儀から各地へ派遣する軍勢の人数に関する)御書立も決まったので、やがて御人数を(そちらへ)遣わすので安心するように伝える。今日(8月1日)伏見城本丸へことごとく乗り入れ、西の丸(など)いずれも焼失した。『殿主』もことごとく焼亡した。小松方面の状況を追々注進するように指示。石田三成が人数を連れて、時日に寄らず(そちらへ)駆け付けて一戦をするつもりなので気遣いしないように伝える」と。
 この内容の「注」には、次のようなことも記されています。
「『御加勢』、『御人数』というように『御』を付けて表記しているのは、豊臣公儀から遣わされる軍勢という意味によるものであろう」
「『御書立』とは、『真田家文書』上巻(56号文書)の人数書立を指すと考えられる。よって、8月1日の時点で、この人数書立ができた(決定した)ことがわかり、豊臣公儀はこの人数書立をもとに各方面への派遣諸将と軍勢の人数を決定したことがわかる」
「8月1日の時点では、石田三成が北陸方面へ出陣予定であったことがわかり、このことは注目される」と。 
 「真田家文書」の人数書立の中では、三成は美濃口(美濃方面軍)に組み込まれていますが、戦況によっては北国方面へ出陣する予定も実際あったのか、興味が惹かれます。
 

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