石田三成の実像3117 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」129 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」1 家康の計らいによって佐賀藩として存続・秀吉への感謝を示し逆修墓に「鍋島加賀守豊臣朝臣直茂」と記す

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、直茂の生涯、及び佐賀藩について、まず端的に次のように記されています。
 「鍋島直茂の生涯は主君龍造寺隆信の覇業を助け、隆信横死後は龍造寺家存続のために粉骨砕身尽力するものだった。結果的に龍造寺家を鍋島家が継ぐことになってしまったが、それは決して直茂による簒奪といったものではない。
 肥前佐賀藩、鍋島氏を当主とする知行石高35万7000石の大藩は、『関ヶ原の戦い』において明らかに『西軍』方で参戦しておきながらも、徳川家康の格別の計らいによって近世大名として成立・存続できたという曰く因縁を有している」と。
 「直茂による簒奪といったものではない」という中西氏の見解は、中西氏・白峰氏共著の「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の中でも述べられていますし、その点については拙ブログ記事で以前取り上げました。
 鍋島氏の佐賀藩が存続できたのは、確かに「徳川家康の格別の計らいによって」ですが、中西氏は「最新研究 江上八院の戦い」の「第2章 戦国時代龍造寺氏の盛衰と鍋島直茂」の中で、直茂が秀吉に対しても感謝していたのではないかと推測されています。その根拠として、直茂が死の前年、逆修碑に「鍋島加賀守豊臣朝臣直茂」と刻ませていることが挙げられ、そのことについて次のように説明されています。
 「豊臣氏はすでに元和元年に滅亡し、名実共に徳川氏の天下となっている」にもかかわらず、「佐賀の一介の郷士・鍋島氏が佐賀城主・35万7000石の大大名に成り上がれたのは太閤秀吉の恩顧あってこそ、という思いからかもしれない」と。
 秀吉が龍造寺家より直茂を重んじていたことについて、中西氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、次のように記されています。
 「直茂のさらなる尽力で、龍造寺家は豊臣政権下でも西九州最大の豊臣大名に転化できた。しかし、豊臣政権の求める『御奉公』に龍造寺家中を取りまとめて勧めることは直茂でなければとても為しえず、政家は天正18年に隠居させられ家督は幼い高房に譲られた。いずれは直茂に龍造寺家を継がせようという豊臣政権の意向があったものと思われる。文禄元年(1592)から7年にわたる朝鮮出兵も、直茂が陣代として龍造寺家臣団を率いて渡海し、戦地で苦労を重ねるなかで龍造寺家臣団も直茂の指導力に徐々に服していった」と。
 文禄の役の際は、鍋島直茂は、加藤清正や相良頼房と共に二番隊として朝鮮半島に渡り、1万2000人の兵を率いていました。この時、三成は名護屋で船奉行を務め、ついで秀吉の代わりに増田長盛・大谷吉継らと共に奉行として渡海して、現地で指揮に当たっています。慶長の役の際は、鍋島直茂・勝茂は四番隊として渡海し、同じく1万2000人の兵を率いています。この時は、三成は渡海せず、国内で政務に当たっています。鍋島直茂は、朝鮮の役における実戦部隊として秀吉から大きな期待を寄せられ、それに報いたわけです。
 

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