石田三成の実像14 「黒田長政」7 蔚山倭城籠城戦
黒田長政は慶長の役の際は、毛利秀元を総大将とする軍に加わり、全羅道から忠清道に進みました。黒田隊は97年9月に稷山(しゃくざん)の地で明軍と戦い、やや押され気味でしたが、毛利秀元が救援に駆けつけたため、明軍側は崩れて退却しました。しかし、日本軍は寒くなってゆく時期に、漢城を攻撃するのは無理だと考え、南下しました。文禄の役で活躍した李舜臣が復帰して朝鮮水軍の力が増し、日本軍の制海権が脅かされてきたことも原因でした。 黒田長政はその年の12月に釜山の北に梁山(りゃくさん)倭城を築きましたが、その直後に朝鮮・明軍による蔚山(うるさん)倭城攻撃が始まり、立てこもっていた加藤清正たちを救うべく、毛利秀元、蜂須賀家政たち2万の兵が向かいます。その中に黒田長政も交じっていました。加藤清正たちは半月の間、猛攻に耐えましたが、水も食料もないという悲惨な状況でした。黒田長政たちは一旦、西生浦倭城に集結しましたが、それが蔚山倭城に一番近い城であり、蔚山倭城がもっとも北にある城で、そういう位置にあったから攻撃を受けやすかったと言えます。
救援部隊は海と陸から蔚山城に向かい、その攻撃によって朝鮮・明軍は蔚山城の囲みを解いて退却したのですが、この後、日本軍が彼らを追撃しなかったことが後に問題となります。
黒田長政らは自分の居城の方が心配だから追撃しなかったのですが、それだけの余力がすでに日本軍になかったという証でもありますし、厭戦気分が漂っていたことも大きかったのでしょう。
軍奉行の福原長尭たちがそれらの事実を秀吉に報告したため、秀吉は激怒し、黒田長政をはじめとする武将たちが処分を受けるのです。福原たちは三成の息のかかった者たちであり、三成が福原たちをかばったため、黒田長政たちは三成を深く恨むようになったというのです。これが、前田利家の死後すぐに起こった黒田長政たち七将による三成襲撃事件のきっかけとなり、関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の武将たちが東西に分かれることにもつながってゆきますから、大きな出来事だった言えます。
ただし、この蔚山の処分問題に関しては私自身、本当にそうだったのかと、ひっかかる点があります。三成は和平派であり、文禄の役の際は戦線縮小を唱えていたのです。慶長の役の際は、三成は朝鮮半島に渡らなかったとはいえ、蔚山の戦いで追撃しなかったり、戦線縮小を唱えたりした者を咎めだてするでしょうか。それでは彼の主張が百八十度変わったことになります。彼の立場が文禄の役と慶長の役とでは微妙に変わったためでしょうか。あるいはどろどろした人間関係のせいでしょうか。あるいは、福原たちの報告を得て、現地の武将たちの思いは痛いほど分かっていながら、福原たちの立場を尊重して、彼らを守る側に廻ったのでしょうか。
いろいろ考えられますが、いまだ納得できる解釈は得られないでいます。少なくとも安易に三成の讒言だと決め付けることはできません。
蜂須賀家政が国元で謹慎するように言い渡されたのに対して、黒田長政は加藤清正と同様、譴責処分を受けたものの、朝鮮半島にとどまったままでした。黒田長政や加藤清正が釜山を立ったのは、秀吉の死後三ヶ月余り経った11月23日であり、博多にたどり着いたのは12月上旬でした。
救援部隊は海と陸から蔚山城に向かい、その攻撃によって朝鮮・明軍は蔚山城の囲みを解いて退却したのですが、この後、日本軍が彼らを追撃しなかったことが後に問題となります。
黒田長政らは自分の居城の方が心配だから追撃しなかったのですが、それだけの余力がすでに日本軍になかったという証でもありますし、厭戦気分が漂っていたことも大きかったのでしょう。
軍奉行の福原長尭たちがそれらの事実を秀吉に報告したため、秀吉は激怒し、黒田長政をはじめとする武将たちが処分を受けるのです。福原たちは三成の息のかかった者たちであり、三成が福原たちをかばったため、黒田長政たちは三成を深く恨むようになったというのです。これが、前田利家の死後すぐに起こった黒田長政たち七将による三成襲撃事件のきっかけとなり、関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の武将たちが東西に分かれることにもつながってゆきますから、大きな出来事だった言えます。
ただし、この蔚山の処分問題に関しては私自身、本当にそうだったのかと、ひっかかる点があります。三成は和平派であり、文禄の役の際は戦線縮小を唱えていたのです。慶長の役の際は、三成は朝鮮半島に渡らなかったとはいえ、蔚山の戦いで追撃しなかったり、戦線縮小を唱えたりした者を咎めだてするでしょうか。それでは彼の主張が百八十度変わったことになります。彼の立場が文禄の役と慶長の役とでは微妙に変わったためでしょうか。あるいはどろどろした人間関係のせいでしょうか。あるいは、福原たちの報告を得て、現地の武将たちの思いは痛いほど分かっていながら、福原たちの立場を尊重して、彼らを守る側に廻ったのでしょうか。
いろいろ考えられますが、いまだ納得できる解釈は得られないでいます。少なくとも安易に三成の讒言だと決め付けることはできません。
蜂須賀家政が国元で謹慎するように言い渡されたのに対して、黒田長政は加藤清正と同様、譴責処分を受けたものの、朝鮮半島にとどまったままでした。黒田長政や加藤清正が釜山を立ったのは、秀吉の死後三ヶ月余り経った11月23日であり、博多にたどり着いたのは12月上旬でした。
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