石田三成の実像17 「明石掃部」2 大坂の陣における活躍

 昨日のラジオで放送していた八幡和郎の講演の中で、関ヶ原の戦いの際は、秀吉夫人の北政所と淀殿がいずれも家康派でも三成派でもなく中立だったと述べていました。北政所イコール家康派、淀殿イコール三成派という従来の捉え方から一歩前進したものと評価できました。もっとも、私はむしろ北政所は三成寄りだったと考えているのですが。
 さて、明石掃部ですが、森本繁氏は著書「明石掃部」の中で、関ヶ原から逃れた明石一族の逃避行を克明に描いており、備前、備中に潜伏した後、九州の黒田長政を頼り、やがて大坂入城に至るまでの経緯を明らかにしています。黒田家に頼ったのは明石家は黒田家と親戚であり、同じキリシタンでもあった縁であり、明石掃部は移り住んだ筑前秋月で布教活動に務め、念願の天主堂までできました。しかし、黒田如水たちがなくなった後、黒田長政は徳川幕府を気遣って自らキリスト教を捨て、領民にも信仰禁止を言い渡します。1612年に明石は長崎に移り、明石一族もばらばらになりました。
 そして、14年大坂城に入城するのですが、キリスト教禁止で長崎にも居場所がなくなったことと、徳川と豊臣の間に暗雲がたちこめ豊臣家のために尽力し、最後の花を咲かせたいという思いに駆られたことが理由だと思われます。明石は十字架の旗を掲げ、その下に馳せ参じたキリシタン武士は8千人にのぼったと言います。
 大坂冬の陣では、明石は平野口を守り、前田利常・井伊直孝の軍と戦い、撃退しました。真田幸村も真田丸で徳川軍を翻弄しましたが、結局、徳川と豊臣の間で和議が整いました。しかし、大坂城は和議の条件だった外堀を埋めるという約束を反故にされ内堀まで埋められて、裸城となってしまい、夏の陣で落城します。その夏の陣では、明石は真田幸村から奇襲作戦を依頼され、それに乗ります。秀頼の出馬を合図に、茶臼山の幸村や天王寺の毛利勝永、大野治長たちが東軍と戦っている間に、明石が3百人の精鋭部隊を率いて、迂回して東軍の背後を襲い、家康の本陣に襲いかかるというものでした。しかし、その作戦も、秀頼が出馬したものの途中で引き返したことと、東軍が思いのほか早く攻め込んできたためにもろくも崩れ去りました。幸村は自ら家康の本陣に切り込み、三里も後退させますが、多勢に無勢で家康の首は取れず、討ち死にします。明石も進撃しますが、結局阻まれ、明石は関ヶ原の時と同様姿を消すのです。
 明石掃部は九州柳川藩の田中忠政を頼ります。父親の田中吉政は関ヶ原の戦いの時に石田三成を捕らえた人物ですが、吉政も忠政もキリシタンを保護していました。しかし、柳川に潜伏した後、明石掃部をはじめとする明石一族は16年に長崎代官が派遣した台湾征討艦隊に密かに加わったと言うのです。台湾が明石掃部の終焉の地となったというわけですが、それを証拠立てるものが出てきて欲しいところです。
 

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