石田三成の実像67 「伊達政宗と三成」6
写真は青葉城跡にある護国神社の鳥居と本殿です。明治維新の後、事変や戦いでなくなった宮城県関係の5万6千人の英霊を祀った神社です。
直江兼続軍は最上軍のたてこもる長谷堂城を包囲しますが、伊達軍は9月22日に山形城の東、小白川に布陣し、直江軍とのにらみ合いの状態が続きます。29日に長谷堂城から兵が打って出て激戦となりますが、30日に関ヶ原の戦いの報が届き、上杉景勝は直江兼続に退却を命じ、10月1日から直江軍の撤兵が始まります。しかし、その際、追撃する最上軍・伊達軍との間で激しい戦いが起こります。上杉勢が潜ませた鉄砲隊の襲撃を最上軍が受け、最上義光自身も兜に銃弾を受けますが、貫通せず一命を取りとめました。上杉軍全体が米沢城帰還を果たしたのは4日です。この時、すでに西軍の敗将であった石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は10月1日に京都七条河原で処刑されていました。
伊達政宗は逆に10月6日に、上杉側の本庄繁長を攻めて、さらに福島城を囲みます。領土拡大の意欲満々といった感じですが、防御が固く翌日引き上げています。前にも述べたように、南部領で一揆を扇動させることが発覚したために、伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、家康によってわずか2万石の加増に終わっただけでした。政宗が仙台城(青葉城)の築城に取り掛かったのは1601年のことです。1616年に松平忠輝が兄の徳川秀忠によって改易になっていますが、その時、忠輝に嫁いでいた政宗の娘の五郎八姫は仙台に引き取られ、彼女は仙台で余生を過ごしました。忠輝が改易になったのは、大坂夏の陣に遅れたこと、大坂に駆けつける際、急いでいたため途中で秀忠の旗本2名を斬り殺したことなどが挙げられていますが、義父の伊達政宗を秀忠が恐れていたという背景もあったと言われ、真相はよく分かりません。22年に今度は最上家が改易になったため、政宗は母を仙台に引き取りますが、翌年、母はなくなっています。晩年は母との関係は修復されていたようです。伊達政宗は36年に江戸でなくなっていますが、すでに徳川三代家光の時代になっていました。
伊達政宗の生涯を見てみますと、母との確執、弟殺し、それよりずっと以前には父親の輝宗の見殺し(輝宗が敵に捕らえられた際、政宗は「俺を撃て」という輝宗の下知に従い、一斉射撃を命じ、泣く泣く父親を殺してしまったとも言われています)など、家族関係がいろいろとぎくしゃくしていますが、これは政宗に限ったことではなく、戦国武将にありがちのことでした。
それに対して、石田三成一族は三成を中心にしてよくまとまっていました。兄の正澄も三成をよく補佐して堺奉行を務めていますし、父親の正継も三成に代わって、佐和山城で領国経営によく当たりました。関ヶ原では家臣団が一丸となって東軍と戦っていますし、佐和山落城の際は、正継も正澄も自刃しています。
直江兼続軍は最上軍のたてこもる長谷堂城を包囲しますが、伊達軍は9月22日に山形城の東、小白川に布陣し、直江軍とのにらみ合いの状態が続きます。29日に長谷堂城から兵が打って出て激戦となりますが、30日に関ヶ原の戦いの報が届き、上杉景勝は直江兼続に退却を命じ、10月1日から直江軍の撤兵が始まります。しかし、その際、追撃する最上軍・伊達軍との間で激しい戦いが起こります。上杉勢が潜ませた鉄砲隊の襲撃を最上軍が受け、最上義光自身も兜に銃弾を受けますが、貫通せず一命を取りとめました。上杉軍全体が米沢城帰還を果たしたのは4日です。この時、すでに西軍の敗将であった石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は10月1日に京都七条河原で処刑されていました。
伊達政宗は逆に10月6日に、上杉側の本庄繁長を攻めて、さらに福島城を囲みます。領土拡大の意欲満々といった感じですが、防御が固く翌日引き上げています。前にも述べたように、南部領で一揆を扇動させることが発覚したために、伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、家康によってわずか2万石の加増に終わっただけでした。政宗が仙台城(青葉城)の築城に取り掛かったのは1601年のことです。1616年に松平忠輝が兄の徳川秀忠によって改易になっていますが、その時、忠輝に嫁いでいた政宗の娘の五郎八姫は仙台に引き取られ、彼女は仙台で余生を過ごしました。忠輝が改易になったのは、大坂夏の陣に遅れたこと、大坂に駆けつける際、急いでいたため途中で秀忠の旗本2名を斬り殺したことなどが挙げられていますが、義父の伊達政宗を秀忠が恐れていたという背景もあったと言われ、真相はよく分かりません。22年に今度は最上家が改易になったため、政宗は母を仙台に引き取りますが、翌年、母はなくなっています。晩年は母との関係は修復されていたようです。伊達政宗は36年に江戸でなくなっていますが、すでに徳川三代家光の時代になっていました。
伊達政宗の生涯を見てみますと、母との確執、弟殺し、それよりずっと以前には父親の輝宗の見殺し(輝宗が敵に捕らえられた際、政宗は「俺を撃て」という輝宗の下知に従い、一斉射撃を命じ、泣く泣く父親を殺してしまったとも言われています)など、家族関係がいろいろとぎくしゃくしていますが、これは政宗に限ったことではなく、戦国武将にありがちのことでした。
それに対して、石田三成一族は三成を中心にしてよくまとまっていました。兄の正澄も三成をよく補佐して堺奉行を務めていますし、父親の正継も三成に代わって、佐和山城で領国経営によく当たりました。関ヶ原では家臣団が一丸となって東軍と戦っていますし、佐和山落城の際は、正継も正澄も自刃しています。
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