石田三成の実像103 「連作短歌・無念関ヶ原」13 不利な陣形の東軍、誤伝された蒲生郷舎

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写真は伏見の治部池の柵の前から南の方向を撮ったもので、左に治部池があります。南の道をたどったあたりが治部小丸という地名になって残っていますが、御陵の参道みたいなものですから、その地名がつく家はないと思われます。ここのあたりに石田三成が住み、伏見城の秀吉のもとで政務に励んでいたと考えると、感慨無量なものがあります。
 さて、連作短歌の続きです。

  家康の一か八かの勝負に出づみづから不利なる陣形構へ
 裏切りのほんものなるかと家康も不安ならずや決戦の前は
 背後より攻められたらば一たまりもなく崩れけむ家康軍は

 関ヶ原の戦いにおいて、陣形的には、西軍の方が断然有利でした。西軍のふところに飛び込むような形になり、背後の南宮山に陣取っていた吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊たちが襲いかかってきたら、東軍は挟み撃ちにあって総崩れになったかもしれません。むろん、吉川広家は家康と気脈を通じ、兵を動かさないと約束していましたし、家康も南宮山の抑えとして、池田輝政、浅野幸長、山内一豊たちを配置していましたが、吉川の約束も反故にされる可能性もあり、家康にとっては軍を関ヶ原に進めるのは冒険には違いなかったのです。
 小早川秀秋も内応するとの約束をしていましたが、実際のところは、関ヶ原の戦いの午前中は何の動きも見せませんでした。午前中の戦いは一進一退、むしろ西軍が善戦しているという状況であり、家康も戦況が自分の思い通りにならず、いらいらして、しきりに爪を噛んでいたと言います。最初は家康は桃配山に本陣を置いていましたが、開戦から二時間程たった十時頃、石田三成の本陣からわずか数百メートルの、今で言う陣場野の地にに陣を移しました。
 笹尾山に布陣する石田三成隊は、馬防柵をこしらえ、前衛を島左近と蒲生郷舎(さといえ)が務めていました。もっとも、蒲生郷舎とされているのは誤りで、本当は蒲生頼郷という人であり、前名を横山喜内と言いました。石田三成隊の前衛を務めた蒲生頼郷は、関ヶ原の戦いで奮戦しますが、最後は東軍の織田有楽斎に襲いかかり落馬させるものの、その郎党たちに討ち取られました。蒲生郷舎なる人物も石田隊に属して関ヶ原の戦いで奮戦しますが、生き残り、蒲生家に帰参しました。蒲生氏郷がなくなった後、跡継ぎの秀行は大幅に所領を減らされますが、その時、三成は蒲生氏郷の家臣を多数引き取って自分の家臣として召抱えています。浪人せずに助かった蒲生家家臣がたくさんいて、彼らはいずれも関ヶ原の戦いで三成の家臣として勇猛果敢に戦い、戦死した者も少なくありませんでした。
 前衛の島左近と蒲生頼郷の頑張りで、攻め寄せる東軍を跳ね返しますし、三成隊の放った大筒も威力を発揮し、小西行長隊も宇喜多秀家隊も東軍相手に奮戦していました。

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