古典文学探訪42 「松蔭日記」3 柳沢吉保の動作には敬語が用いられている
柳沢吉保が山荘の桜を見に行ったのが3月末日ですから、旧暦では春の終わりの日であり、4月から夏になります。その境目の日であることに町子は着目し、それを歌に詠みましたが、吉保との会話の中で、明日からは夏だというようなことも話題に出ていたはずですし、吉保も春の間に是非とも来たかったのでしょうから、それが実現してことの外、喜んでいたのでしょう。今以上に季節感に敏感だった時代の人ならではの町子の歌と言えます。
「松蔭日記」は江戸時代の文章だけあって、内容的には分かりやすい話であり、入試で出題されたこの部分も同様です。しかも、吉保が主語の場合は必ずといっていいほど、敬語が使われていますので、そこに着目すれば、誰の動作か一目瞭然です。ただ、和歌の読解ができなければ、正確な内容がつかめませんので、その点は要注意です。センター試験でも、今年は別でしたが、和歌が本文の中で出て来ており、その内容に関する問いが、たいていありました。今年がそうだったように、近世の文学からの出題も最近は結構多いようです。
なお、柳沢吉保の息子の吉里の代になって、柳沢家は大和郡山に領地を持ち、江戸時代の終わりまで続きます。柳沢文庫が有名ですが、大和郡山市は豊臣時代は豊臣秀長の領地だったところで、今も市民たちは秀長を慕っており、平成8年に秀長百万石祭りが開かれました。
柳沢吉里はやはり吉保の側室だった染子との間にできた子供で、町子が生んだわけではありません。染子は一説によると、五代将軍綱吉の愛妾であったけれども、吉保に下げ渡されたというふうに伝えられ、ドラマでもそのように描かれることがありますが、それは事実ではなく、作り事だったようです。極端な話になりますと、吉里は綱吉の子であったというような興味本位のも捉え方もなされています。
町子は「松蔭日記」を、道長を主人公にした「栄華物語」に倣って作っており、確かに両者の作品共に天下の実権を握った吉保や道長を称えています。町子は吉保の死を見届けた後、十年後になくなっています。綱吉の下、権勢をふるった吉保でしたが、綱吉の死によって引退に追い込まれ、息子の吉里に家督を譲ります。それは主君に仕えた近臣たちが辿る宿命のようなものであり、その意味では石田三成の運命も似たところがあります。
「松蔭日記」は江戸時代の文章だけあって、内容的には分かりやすい話であり、入試で出題されたこの部分も同様です。しかも、吉保が主語の場合は必ずといっていいほど、敬語が使われていますので、そこに着目すれば、誰の動作か一目瞭然です。ただ、和歌の読解ができなければ、正確な内容がつかめませんので、その点は要注意です。センター試験でも、今年は別でしたが、和歌が本文の中で出て来ており、その内容に関する問いが、たいていありました。今年がそうだったように、近世の文学からの出題も最近は結構多いようです。
なお、柳沢吉保の息子の吉里の代になって、柳沢家は大和郡山に領地を持ち、江戸時代の終わりまで続きます。柳沢文庫が有名ですが、大和郡山市は豊臣時代は豊臣秀長の領地だったところで、今も市民たちは秀長を慕っており、平成8年に秀長百万石祭りが開かれました。
柳沢吉里はやはり吉保の側室だった染子との間にできた子供で、町子が生んだわけではありません。染子は一説によると、五代将軍綱吉の愛妾であったけれども、吉保に下げ渡されたというふうに伝えられ、ドラマでもそのように描かれることがありますが、それは事実ではなく、作り事だったようです。極端な話になりますと、吉里は綱吉の子であったというような興味本位のも捉え方もなされています。
町子は「松蔭日記」を、道長を主人公にした「栄華物語」に倣って作っており、確かに両者の作品共に天下の実権を握った吉保や道長を称えています。町子は吉保の死を見届けた後、十年後になくなっています。綱吉の下、権勢をふるった吉保でしたが、綱吉の死によって引退に追い込まれ、息子の吉里に家督を譲ります。それは主君に仕えた近臣たちが辿る宿命のようなものであり、その意味では石田三成の運命も似たところがあります。
"古典文学探訪42 「松蔭日記」3 柳沢吉保の動作には敬語が用いられている" へのコメントを書く