石田三成の実像137 「細川ガラシャ・細川忠興と三成」6 関ヶ原の戦い
写真は大阪玉造の細川屋敷跡にある越中公園に咲いていた桜の花を4月中旬に撮ったものです。
三成襲撃事件は後ろで家康が糸を引いていたとも考えられます。このことによって豊臣家臣団は二つに分断してしまいましたし、三成隠居の後、家康は前田利長が自分の暗殺をはかったという疑いをかけ、利家の未亡人である松を江戸に人質に取りますが、この時、前田家と姻戚関係にあった細川忠興にも類が及びかけます。この時、忠興は息子の忠利をやはり江戸に人質に差し出し、前田家とは縁を切り、難を免れると共に、家康寄りの姿勢を明確にしました。細川家と前田家との絶好状態はその後、100年にわたって続きました。忠興の従順な姿勢に気をよくした家康は忠興に豊後杵築6万石を加増しています。
忠興は関ヶ原の戦いで、石田三成隊と激戦を展開しました。三成隊は六千の軍勢でしたが、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次、生駒一正たち約二万一千の兵に対して、互角以上の戦いをしました。中でも前衛の島左近、蒲生頼郷の奮戦は際だっていました。また大筒も大きな威力を発揮しました。小早川秀秋の裏切りがなかったら、戦いの趨勢はどうなっていたか分かりません。
忠興の父親の幽斎も田辺城に籠もって、一万五千人の西軍を引きつけ、降伏しないまま50日程頑張ります。それは幽斎が古今伝授を受けており、幽斎は死ぬ前にその奥義を弟子である皇弟の八条宮智仁親王に伝えようとしたため、親王が後陽成天皇に知らせ、幽斎の助命運動が起こったのです。幽斎に城を明け渡すようにとの勅使が来ますが、彼は拒絶します。天皇は今度は西軍の前田玄以に攻めるのを止めるように働きかけますが、玄以は次男の茂勝を遣わして和睦を勧めたものの、やはり応じません。天皇は三名の勅使を派遣して和睦の勅命を伝え、とうとう幽斎は城を明け渡しました。
それが9月13日のことであり、関ヶ原の戦いの二日前のことでした。むろん、その西軍たちは関ヶ原の戦い参加できせんでした。幽斎は亀山城に移りましたが、500の兵で西軍の大軍を釘付けにした功績は少なくありませんでした。幽斎自身が塚原卜伝から剣術の指南を受けたと伝えられていますから、文武両道に優れた者であり、忠興もその血を受け継いでいたのでしょう。
三成襲撃事件は後ろで家康が糸を引いていたとも考えられます。このことによって豊臣家臣団は二つに分断してしまいましたし、三成隠居の後、家康は前田利長が自分の暗殺をはかったという疑いをかけ、利家の未亡人である松を江戸に人質に取りますが、この時、前田家と姻戚関係にあった細川忠興にも類が及びかけます。この時、忠興は息子の忠利をやはり江戸に人質に差し出し、前田家とは縁を切り、難を免れると共に、家康寄りの姿勢を明確にしました。細川家と前田家との絶好状態はその後、100年にわたって続きました。忠興の従順な姿勢に気をよくした家康は忠興に豊後杵築6万石を加増しています。
忠興は関ヶ原の戦いで、石田三成隊と激戦を展開しました。三成隊は六千の軍勢でしたが、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次、生駒一正たち約二万一千の兵に対して、互角以上の戦いをしました。中でも前衛の島左近、蒲生頼郷の奮戦は際だっていました。また大筒も大きな威力を発揮しました。小早川秀秋の裏切りがなかったら、戦いの趨勢はどうなっていたか分かりません。
忠興の父親の幽斎も田辺城に籠もって、一万五千人の西軍を引きつけ、降伏しないまま50日程頑張ります。それは幽斎が古今伝授を受けており、幽斎は死ぬ前にその奥義を弟子である皇弟の八条宮智仁親王に伝えようとしたため、親王が後陽成天皇に知らせ、幽斎の助命運動が起こったのです。幽斎に城を明け渡すようにとの勅使が来ますが、彼は拒絶します。天皇は今度は西軍の前田玄以に攻めるのを止めるように働きかけますが、玄以は次男の茂勝を遣わして和睦を勧めたものの、やはり応じません。天皇は三名の勅使を派遣して和睦の勅命を伝え、とうとう幽斎は城を明け渡しました。
それが9月13日のことであり、関ヶ原の戦いの二日前のことでした。むろん、その西軍たちは関ヶ原の戦い参加できせんでした。幽斎は亀山城に移りましたが、500の兵で西軍の大軍を釘付けにした功績は少なくありませんでした。幽斎自身が塚原卜伝から剣術の指南を受けたと伝えられていますから、文武両道に優れた者であり、忠興もその血を受け継いでいたのでしょう。
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