石田三成の実像155 「関ヶ原探訪記」7: 関ヶ原合戦400年祭記念碑

画像

 写真は歴史民俗博物館前にあった関ヶ原400年のイベントを記念して作られた碑です。向かって右側に三成の旗印の「大一大万大吉」が、左側に徳川家の葵の紋が描かれています。
 2000年の10月7日から9日にかけて行われたイベントで、私はその最後の1日半を見ました。8日の午後に合戦再現イベントがありましたが、武将や兵に扮した人々がそれぞれの陣を出発して、合戦が行われる関ヶ原小学校へ向かいましたが、私が関ヶ原駅に着いて合戦再現場所に向かおうとしたら、同じくそこに向かおうとする家康隊と出くわしました。むろん、家康は馬に乗っており、私はしばらく横に並んで歩きましたが、三成の立場にすれば、このように家康を目の前にしたらさぞや打ち倒したかっただろうという思いがよぎりました。もっとも、三成は家康との直接対決を考えていたはずですから、不意打ちみたいにしてでも暗殺しようとするのは島左近だったかもしれませんが。ちなみに、その時の家康に扮していたのは尾張徳川家の末裔の人だと聞いています。ともかく、家康の命を狙える位置に私は立っていたわけで、因縁めいたものを私は感じました。 
 合戦再現イベントは三成の陣跡の馬防柵あたりから眺めたため、位置的に少々見にくかったのですが、まわりは黒山のような人だかりで、それ以上現地に近づけませんでした。それでも関ヶ原の戦いの様子は充分知ることができて、見応えがあり、来た甲斐はあったと実感しました。
 もっとも、関ヶ原の戦いの描き方は通説を踏まえ、三成が島津隊に参戦するよう要請したものの、島津隊はそれを断り動かないという内容でした。三成は総攻撃ののろしをあげますが、小早川隊も毛利隊も動かず、焦る三成の姿も描かれていました。もっとも、家康の方も桃配山から陣場野まで陣を前に移すものの、戦いの一進一退の状況にいらいらしていたとも述べられていました。そして、家康が小早川隊に裏切りを促すべく鉄砲による威嚇を行い、小早川隊はそれに応じて、西軍の大谷隊に襲いかかり、それに続く脇坂隊たちも裏切り西軍が総崩れとなり、最後は島津隊が敵中突破をはかるという一連の合戦の経緯が再現されていました。
 なにしろ、千人規模の人々の参加による戦いの再現ですから迫力があり、さらにホラ貝、三味線、笛、シンセサイザーなどによって雰囲気を盛り上げていましたし、鉄砲隊の実演も行われました。
 しかし、400年も経てば敵も味方の区別なく、すでに恩讐も超えており、実際、その前日には戦没者の霊を弔う儀式が執り行われ、コンサートなども開かれましたが、私はそれには参加できませんでした。

"石田三成の実像155 「関ヶ原探訪記」7: 関ヶ原合戦400年祭記念碑" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。