京都探訪21 高台寺の塔頭「圓徳院」1 伏見城の化粧屋敷・庭園を移築
写真は高台寺の塔頭である圓徳院を撮ったものです。高台寺は二度行きましたが、圓徳院は初めてであり、関ヶ原合戦祭りの一週間前に訪ねました。高台寺と言えば、秀吉夫人の北政所が建てた寺ですが、北政所自身は、58才(1605年)の時から、なくなる77才の時までこの圓徳院の地に住んでいました。圓徳院となったのは、北政所の兄に当たる木下家定の次男の利房によっであり、北政所がなくなって8年後の1632年のことでした。
北政所が大坂城西の丸を出たのが秀吉の死の翌年ですが、北政所イコール家康派と捉える従来の説によると、北政所が家康に大坂城西の丸を譲ったという扱われ方ですが、三成たち西軍が出した(三成の名は書状には出てきませんが)弾劾状「家康違ひの条々」によると、家康が北政所を大坂城から追い出したと責めていますから、よしんば追い出してはいないにしても、北政所が進んで家康に後を託したわけではなく、北政所が退いた後に勝手に西の丸に居座ってしまったというのが真相ではないでしょうか。
それはともかく、北政所が高台院の号を後陽成天皇から与えられたのが1603年であり、その2年後に、伏見城から化粧御殿と庭園を移築し、そこに彼女は移り住みました。
写真は圓徳院の北庭を撮ったものですが、これが伏見城にあった北政所の化粧御殿の前庭を移したものであり、当時の形をほぼ留めているということです。後に小堀遠州が手を加えていますが、巨岩が多数置かれている枯山水の庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さだとお寺の小冊子に説明されていました。
北政所が秀吉の菩提を弔うために高台寺を創建したのは1606年のことですが、高台寺と号されるようになったのは、1624年のことであり、開山として建仁寺の三江和尚を迎えました。高台寺の庭園は圓徳院をさらに上回る規模であり、大きな池が2つあり、龍の背に似ているところから「臥龍廊」と名付けられた階段や、秀吉が好んだ月を眺める「観月台」が設けられています。ここでも石組みの見事さが桃山時代らしく、庭園を作ったのはやはり小堀遠州でした。高台寺の霊屋(おたまや)には秀吉と北政所の木像が安置されています。
北政所が大坂城西の丸を出たのが秀吉の死の翌年ですが、北政所イコール家康派と捉える従来の説によると、北政所が家康に大坂城西の丸を譲ったという扱われ方ですが、三成たち西軍が出した(三成の名は書状には出てきませんが)弾劾状「家康違ひの条々」によると、家康が北政所を大坂城から追い出したと責めていますから、よしんば追い出してはいないにしても、北政所が進んで家康に後を託したわけではなく、北政所が退いた後に勝手に西の丸に居座ってしまったというのが真相ではないでしょうか。
それはともかく、北政所が高台院の号を後陽成天皇から与えられたのが1603年であり、その2年後に、伏見城から化粧御殿と庭園を移築し、そこに彼女は移り住みました。
写真は圓徳院の北庭を撮ったものですが、これが伏見城にあった北政所の化粧御殿の前庭を移したものであり、当時の形をほぼ留めているということです。後に小堀遠州が手を加えていますが、巨岩が多数置かれている枯山水の庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さだとお寺の小冊子に説明されていました。
北政所が秀吉の菩提を弔うために高台寺を創建したのは1606年のことですが、高台寺と号されるようになったのは、1624年のことであり、開山として建仁寺の三江和尚を迎えました。高台寺の庭園は圓徳院をさらに上回る規模であり、大きな池が2つあり、龍の背に似ているところから「臥龍廊」と名付けられた階段や、秀吉が好んだ月を眺める「観月台」が設けられています。ここでも石組みの見事さが桃山時代らしく、庭園を作ったのはやはり小堀遠州でした。高台寺の霊屋(おたまや)には秀吉と北政所の木像が安置されています。
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