石田三成の実像338 「直江兼続と三成」57 大通寺の庭園・ 「兼続・三成と関ヶ原物語館」
写真は大通寺の含山軒庭園を撮ったものです。残念ながら、後ろに伊吹山は見えていませんが、伊吹山を借景にしているところから、含山軒の名が生まれました。
本堂もまた伏見城の遺構であり、彦根藩主井伊直孝の時に寺域の拡大がはかられ、東本願寺の本山から本堂と広間が譲られたといいます。それが江戸時代の伏見城であったものか、秀吉時代のものであったかはよくわかりませんが、普通に考えれば、前者でしょう。
秀吉が伏見城を築城した際には三成だけではなく、直江兼続も携わり、総構堀普請を担当しました。そのための労力も経済的な負担も相当なものだったと思われますが、「天地人」でも兼続が伏見城築城に協力したことが描かれていました。
大通寺を見た後、「曳山博物館」に向かいました。秀吉の子が生まれた時に町人に砂金を贈り、その資金がもととなって町人たちが曳山を造営し、長浜八幡宮の祭礼に曳いたのが、長浜曳山祭りの始まりといわれています。博物館には実際の大きな曳山が置かれて、祭に関するさまざまな展示がされていますが、「兼続・三成と関ヶ原物語館」として特別展示もされていました。西軍の人気武将の投票も行われていましたが、三成は別格扱いで、それ以外の西軍武将を選ぶというものでした。面白いのは、三成が各武将を紹介するのに、「ぼく」という一人称を使っていることでした。それだけ、展示を見る者も親近感を持てるわけで、悪い気はしませんでした。むろん、若者や子供たちにも親しみを持ってもらおうという配慮が働いているからでもありましょうが。三成の逸話については、三人称で説明されていましたが、きちんと出典が明記されていました。
また「関ヶ原合戦図」「佐和山合戦図」、それに兼続が活躍した「長谷堂城合戦図」も展示されていました。「伏見城合戦図」では、三成屋敷が燃えており、本当に燃えたかどうかは定かではありませんが、運命の皮肉を感じました。
本堂もまた伏見城の遺構であり、彦根藩主井伊直孝の時に寺域の拡大がはかられ、東本願寺の本山から本堂と広間が譲られたといいます。それが江戸時代の伏見城であったものか、秀吉時代のものであったかはよくわかりませんが、普通に考えれば、前者でしょう。
秀吉が伏見城を築城した際には三成だけではなく、直江兼続も携わり、総構堀普請を担当しました。そのための労力も経済的な負担も相当なものだったと思われますが、「天地人」でも兼続が伏見城築城に協力したことが描かれていました。
大通寺を見た後、「曳山博物館」に向かいました。秀吉の子が生まれた時に町人に砂金を贈り、その資金がもととなって町人たちが曳山を造営し、長浜八幡宮の祭礼に曳いたのが、長浜曳山祭りの始まりといわれています。博物館には実際の大きな曳山が置かれて、祭に関するさまざまな展示がされていますが、「兼続・三成と関ヶ原物語館」として特別展示もされていました。西軍の人気武将の投票も行われていましたが、三成は別格扱いで、それ以外の西軍武将を選ぶというものでした。面白いのは、三成が各武将を紹介するのに、「ぼく」という一人称を使っていることでした。それだけ、展示を見る者も親近感を持てるわけで、悪い気はしませんでした。むろん、若者や子供たちにも親しみを持ってもらおうという配慮が働いているからでもありましょうが。三成の逸話については、三人称で説明されていましたが、きちんと出典が明記されていました。
また「関ヶ原合戦図」「佐和山合戦図」、それに兼続が活躍した「長谷堂城合戦図」も展示されていました。「伏見城合戦図」では、三成屋敷が燃えており、本当に燃えたかどうかは定かではありませんが、運命の皮肉を感じました。
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