石田三成の実像413 「熱き男たちの友情列伝」3 前田慶次と直江兼続 石田三成と大谷吉継3

 テレビ番組「熱き男たちの友情列伝」では、直江兼続と前田慶次の親しさを証すものとして、山形県の高畠町の亀岡文殊堂に残る兼続の漢詩と慶次の和歌が紹介されていました。関ヶ原の戦い、長谷堂城の戦いの2年後の1602年に、兼続が開いた歌会の時のものです。慶次が上杉家の家臣になるのは、上杉が会津に大幅加増の転封になって多くの浪人を召し抱えた時であり、土のついた大根を持って兼続のもとを訪ねた場面も再現されていました。噛めば噛むほど味が出る大根のような上杉家の家臣になりたいと願い出たと云います。
 長谷堂城を攻めた直江兼続の本陣跡も番組では紹介されていました。関ヶ原の戦いの敗戦を知った兼続が「たった一日で敗れてしまうとは、三成」と兼続が叫ぶ場面も再現ドラマで描かれていました。いろいろな流れ、過程があった上での関ヶ原の戦いですが、結果的に一日で敗れてしまったことで、いくさ下手の三成という固定観念が定着してしまっているような気がします。長谷堂城での戦いでの退却戦で前田慶次がしんがりを務めて大活躍したところは、むろんのこと、描かれていました。慶次が隠棲した米沢郊外の堂森の無苦庵跡、慶次が掘って生活用水としても灌漑用水としても利用したとされる慶次清水、善光寺にある前田慶次供養塔も紹介されていました。慶次が亡くなったのは、加賀藩の史料では1605年、米沢藩の史料では1612年と、7年の開きがあります。
 直江兼続の功績として、最新の坑道掘技術をもって佐渡の鉱山開発をし、併せて農業・漁業の振興も行い、佐渡全体の開発を図ったこと、米沢では最上川の洪水を防ぐべく10キロの直江石堤を築いたことなどが挙げられていました。直江兼続が佐渡の妙宣寺に奉納した80センチの槍の穂先も紹介されていました。
 石田三成と大谷吉継について「熱き男たちの友情列伝」では、秀吉亡き後、吉継は次の天下人は家康だと見なし、三成との亀裂が生じたというふうに描かれていますが、実際、前田利家が徳川家康と対立した時には、吉継は家康寄りでした。上杉攻めの時には、吉継は会津に向けて出陣しますが、途中、三成の家臣が吉継を呼び止めて佐和山城に招いたと番組ではしていますが、細かいことながら吉継は実際には、三成の長男の重家を従軍させるために引き取りに垂井まで来ていました。しかし、重家云々の話は煩雑になるためか、この番組では何も述べられていませんでした。
 むろん、三成が佐和山城に吉継を呼び寄せて家康に対する挙兵の決意を語り、参加を求める場面もドラマとして再現されていました。吉継は天下が家康の方に動いているから今戦いを起こすのは無謀であること、三成にはもっと後の世まで生き延びてほしいと述べ、三成の翻意を促しますが、豊臣家のためには今立つしかないと三成の決意は固く揺るがず、数日を経て、佐和山に再びやってきた吉継は友情に殉じる形で同意します。戦いに勝って三成の喜ぶ姿が目に浮かぶと言う吉継の台詞には泣かされますが、毛利家や西国の大名を取り込めば家康に対して勝てる見込みがあるという勝算のようなものを吉継も感じていたのではないでしょうか。
 

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