石田三成の実像457 小和田哲男氏「歴史ドラマと時代考証」2 同時に送られた直江状に関する言及なし 

  小和田哲男氏は「歴史ドラマと時代考証」の中で、家康が上杉攻めをするきっかけとなった、いわゆる「直江状」について、江戸時代に家康に反感を持った人が兼続に仮託して書いた偽文書ではないかと言われたこともあったが、文章表現上、過激なところもあるものの、当時のものと見てよいという判断に落ち着きつつあると述べています。原文書は失われているが、写しが何通か残っており、内容がうかがえると云います。家康の詰問状に対する4月14日付けの直江兼続の返事が「直江状」ですが、それが家康のところに届いたのは4月25日頃と小和田氏は推測しています。
 もっとも、大河ドラマ「天地人」では「直江状」が三成やお船をはじめとする複数の者に同時に送られたというふうに描かれていましたが、その点に関する小和田哲男氏の言及はありません。明らかにおかしな点であり、小和田氏はその部分を時代考証で問題にはしなかったのでしょうか。
  小和田哲男氏は、「天地人」において、直江兼続が家康たちを迎え撃つ手はずを整えていた革籠原に東西5キロメートルにわたる防塁を築いたということを取り上げたのは、ドラマとしては最初ではないかと書いています。その防塁の存在は、藤井尚夫氏の研究で明らかになったことだとも述べられており、そういう新しい研究成果をドラマに取り入れるのは良いことですが、それにしては「天地人」全体にフィクションの部分が多すぎました。その詳細については昨年の拙ブログで書かせていただきましたが、フィクションの部分をできるだけ排除するところにドラマの時代考証の大事な役割があるのではないでしょうか。。
 「天地人」では石田三成が関ヶ原から落ち延びた際、女忍者で真田幸村の姉とされていた初音の導きで洞窟まで逃れたという描き方になっていますが、以前にも触れたように、これは全くのフィクションであり、それが原作に基づいたことなのか、演出でそうなったのかは私も把握していませんが、いずれにしても、史実とはかけ離れています。三成の落ち行き、及び捕縛の状況については、オンライン三成会編「三成伝説」の「近江・古橋」の章で田附清子さんが詳しく述べています。
 小和田哲男氏は、長谷堂城を攻めていた直江兼続のもとに関ヶ原の戦いでの西軍の敗戦の報が届いたのは、9月30日であり、撤退を開始したのは10月1日であることを述べていますが、「天地人」においては三成が捕縛された場面のすぐ後に兼続のもとに敗戦の報が届いていますから、三成が捕縛された9月21日と日があまり変わらないという誤解を与えかねません。もっとも、「天地人」のこの回「ふたつの関ヶ原」では、8月の岐阜城攻撃から駆け足で9月15日の関ヶ原の戦い・10月1日の長谷堂城からの撤退までを描いていますから、最後に一気に10日近くが経過したとしても、文句は言えないのかもしれませんが。
 

"石田三成の実像457 小和田哲男氏「歴史ドラマと時代考証」2 同時に送られた直江状に関する言及なし " へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。