石田三成の実像485 「週刊 真説 歴史の道 石田三成 のぼうの城の水攻め」3

 北条攻めにおいて、三成は別働隊の指揮権を任され、大谷吉継と共に小田原から関東平野を北上しますが、そのルートについて 「週刊 真説 歴史の道 石田三成 のぼうの城の水攻め」では三成より先に進んでいた、これも別働隊の指揮官であった浅野長政がすでに制圧していた武蔵中部を進み、館林城付近で佐竹義宣たちと合流したのではないかと推定しています。佐竹家と秀吉の取次をしたのが三成であり、佐竹義宣と三成との関係が深く、三成が別働隊の指揮権を任されたのは、佐竹家との関係も大きかったのではないかと述べられています。この軍に加わったのは、佐竹義宣をはじめ宇都宮国綱、多賀谷重経、結城晴朝たち、北関東の反北条氏の諸将たちでした。
 館林城攻めにおいて三成は、山から伐採した木々を城周辺の沼地に投げ込み、通路の幅を広げ、攻めやすくしました。 この木製の通路について、「週刊 真説 歴史の道」では城方が降伏したため使われなかったと言いつつ、三成方が総攻撃しようとした未明に跡形もなく消え去っていたという伝承を紹介しています。通路が消え去ったのは、狐の加護があったからだと城方では噂されたという話も述べられていますが、この通路消失の件について、「週刊 真説 歴史の道」では構造的欠陥や人為的な失敗が招いたことであり、こういう失敗から三成は教訓を学ぶべきだったと述べられ、館林城攻略の成功が慢心を招き、忍城攻撃の大失敗につながったというふうに、二つの攻撃が結びつけられて書かれています。悪意とは云えないまでも、戦下手としての面が強調されているような気がします。
 忍城の水攻めが失敗に終わったとき、三成は秀吉の命令だということを隠して、責任のすべてを自分で背負い込んだと思われるとも書かれていますが、それを証拠立て文書はあるのでしょうか。結果的に秀吉政権の悪行の責任を三成が背負わされたのは事実ですし、忍城攻めの失敗まで引き受けさせられたと考えられますが、自分で背負い込んだというのは、三成の忠義心のなせるわざという捉え方であり、うがち過ぎな見方ではないでしょうか。
 「週刊 真説 歴史の道」では、忍城攻めだけではなく、その後の奥州仕置についても、少し触れられています。三成関連で云えば、三成が検地を行った岩城氏の居城であった磐城大館城、同じく三成が検地を行った相馬氏の居城であった小高城の城跡(現在は小高神社の境内)、三成たちが葛西領接収のため入城した寺池城の城跡が地図に掲載されています。
 三成と大谷吉継の友情についても書かれており、二人の関係図も載っていますが、三成の娘二人がそれぞれ熊谷直盛、石川貞清に嫁いだという旧来の説がそのまま踏襲されています。三女辰姫、長男の重家、次男の重成については系図に記載されていますが、三男左吉は載っていません。
 長浜市石田町の三成生誕の地、秀吉と出会ったとされる観音寺、佐和山城跡などの三成関連遺跡についても数ページ割いて紹介されています。

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