石田三成の実像588 大西泰正氏「研究ノート 豪姫のこと」3 病弱な豪姫 狐落としの秀吉・三成書状
大西泰正氏は「研究ノート 豪姫のこと」の中で秀家に嫁いだ豪姫が病弱であったことについての先行研究も紹介されています。藤島氏は特に産後に大病を患うことが多かったと述べておられます。豪姫には秀家との間に、八郎秀高(孫九郎)、万丸秀継(小平次)、山崎長郷室(長郷死後は富田重家室)の二男一女がいましたが、さらにもう一人冨利姫(伏見宮貞清親王室)がいたことを新保千代子氏の「金沢 野田山」(『カラー加賀能登路の魅力』)と大桑斉氏の「隠された秀家息女『おふり様』のこと」(『宇喜多家史談会会報』12、2004年)で指摘されています。
豪姫の病歴については、文禄4年(1595年)、秀吉が伏見稲荷社に豪姫の野狐落としの祈祷を命じたという有名な話でよく知られていることも大西氏は触れられており、註として桑田忠親氏の「大西家所蔵狐狩の古文書」を挙げておられ、それが10月20日付石田三成・増田長盛連署奉書に当たります。
桑田忠親氏は「太閤の手紙」の中で、伏見稲荷大明神に宛てた秀吉の朱印状があり、その内容を紹介されていますが、長く偽物扱いされてきたそうです。しかし、伏見稲荷の旧社大西家の古文書の中に、この朱印状と日付けは違うが、ほとんど同文の石田三成と増田長盛の連署状が発見されたので、朱印状は写ししか残っていないものの、原本は偽者ではなく、本物だということがわかったと書かれています。秀吉の朱印状は4月13日となっていますが、桑田氏は「太閤の手紙」の中で慶長2年(1597年)と推定されています。
桑田氏が慶長2年とされる秀吉の朱印状の趣旨は、「備前中納言女に物の怪が憑いたのを狐のしわざと認めた。なぜ憑いたのか。再びこのようなことをすれば今度は容赦はせず、毎年狐狩りを申しつける。この秀吉の命令を尊重せよ。すみやかに立ち去れ。詳しいことは吉田の神主に申し渡す」というものです。
ここで私は文禄4年と慶長2年の年次比定に差があることに疑問を持ち、それをどう考えたらいいか判断が付きかねましたので、まことに僭越なことながら、大西泰正氏にこの件についてお尋ねしました。大西氏からは早速ご丁寧な返答をいただきましたので、その内容を紹介致します。結論から云えば、伏見稲荷社に出した秀吉の朱印状が2通ある可能性が高いということになります。
桑田氏が見出された10月20日付石田三成・増田長盛連署奉書の趣旨は、「『備前中納言殿御簾中』の所労が『野狐之所為』と考えられるから、(この文書とは別に)秀吉の朱印状が出された。そういったわけであるから、狐を退散させるように」というものです。この時の秀吉の朱印状は発見されていないものの、中山親綱の日記などから文禄4年10月に豪姫が病んでいたことがわかるので、三成・長盛の副状が文禄4年のものだと桑田氏は考えられたというわけです。大西氏の「研究ノート 豪姫のこと」のこの件に関する註には、「親綱卿記」の文禄4年の10月23日から25日にかけての条、「1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度、年報」が挙げられています。
桑田氏が慶長2年と推定される秀吉の朱印状についても、大西氏は原文書が散逸しているため、伝写の過程で何らかの改変が行われている可能性は排除できないとされながらも、本物だと信頼してよいとおっしゃっています。大西氏は桑田氏が慶長2年と比定しているのは何故かは不明とされながらも、この朱印状は「前橋旧蔵聞書」から引用されており、「前橋旧蔵聞書」が慶長2年説を採っているのかもしれないともおっしゃっています。桑田氏の「太閤の手紙」には慶長2年3月に豪姫が病に罹り、太閤の命令によって3月13日に京都から名医の養安院が呼ばれ、診察の結果、狐に憑かれたと書かれています。
豪姫の病歴については、文禄4年(1595年)、秀吉が伏見稲荷社に豪姫の野狐落としの祈祷を命じたという有名な話でよく知られていることも大西氏は触れられており、註として桑田忠親氏の「大西家所蔵狐狩の古文書」を挙げておられ、それが10月20日付石田三成・増田長盛連署奉書に当たります。
桑田忠親氏は「太閤の手紙」の中で、伏見稲荷大明神に宛てた秀吉の朱印状があり、その内容を紹介されていますが、長く偽物扱いされてきたそうです。しかし、伏見稲荷の旧社大西家の古文書の中に、この朱印状と日付けは違うが、ほとんど同文の石田三成と増田長盛の連署状が発見されたので、朱印状は写ししか残っていないものの、原本は偽者ではなく、本物だということがわかったと書かれています。秀吉の朱印状は4月13日となっていますが、桑田氏は「太閤の手紙」の中で慶長2年(1597年)と推定されています。
桑田氏が慶長2年とされる秀吉の朱印状の趣旨は、「備前中納言女に物の怪が憑いたのを狐のしわざと認めた。なぜ憑いたのか。再びこのようなことをすれば今度は容赦はせず、毎年狐狩りを申しつける。この秀吉の命令を尊重せよ。すみやかに立ち去れ。詳しいことは吉田の神主に申し渡す」というものです。
ここで私は文禄4年と慶長2年の年次比定に差があることに疑問を持ち、それをどう考えたらいいか判断が付きかねましたので、まことに僭越なことながら、大西泰正氏にこの件についてお尋ねしました。大西氏からは早速ご丁寧な返答をいただきましたので、その内容を紹介致します。結論から云えば、伏見稲荷社に出した秀吉の朱印状が2通ある可能性が高いということになります。
桑田氏が見出された10月20日付石田三成・増田長盛連署奉書の趣旨は、「『備前中納言殿御簾中』の所労が『野狐之所為』と考えられるから、(この文書とは別に)秀吉の朱印状が出された。そういったわけであるから、狐を退散させるように」というものです。この時の秀吉の朱印状は発見されていないものの、中山親綱の日記などから文禄4年10月に豪姫が病んでいたことがわかるので、三成・長盛の副状が文禄4年のものだと桑田氏は考えられたというわけです。大西氏の「研究ノート 豪姫のこと」のこの件に関する註には、「親綱卿記」の文禄4年の10月23日から25日にかけての条、「1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度、年報」が挙げられています。
桑田氏が慶長2年と推定される秀吉の朱印状についても、大西氏は原文書が散逸しているため、伝写の過程で何らかの改変が行われている可能性は排除できないとされながらも、本物だと信頼してよいとおっしゃっています。大西氏は桑田氏が慶長2年と比定しているのは何故かは不明とされながらも、この朱印状は「前橋旧蔵聞書」から引用されており、「前橋旧蔵聞書」が慶長2年説を採っているのかもしれないともおっしゃっています。桑田氏の「太閤の手紙」には慶長2年3月に豪姫が病に罹り、太閤の命令によって3月13日に京都から名医の養安院が呼ばれ、診察の結果、狐に憑かれたと書かれています。
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