石田三成の実像790 金子拓氏「記憶の歴史学」3 ガラシャが家臣に胸を突かせたという根拠は不明
細川ガラシャ(玉子)自害から48年後に侍女だった霜の記憶をもとに記された「霜女覚書」には、家臣に胸を突かせたとする、現在の通説になっている記載がありません。それが初めて出て来るのは、「宇土家譜」(延宝年間『1673~81年』頃にはできあがっていただろうと「記憶の歴史学」にあります)の「忠興公譜」(この中には「霜女覚書」についての言及はありません)です。
その「忠興公譜」には、小笠原が玉子の胸を突いたなどという具体的な描写がありますが、それがどういう根拠に基づくものかは不明だと金子拓氏の「記憶の歴史学」の中で指摘しておられます。今日、通説となっている細川ガラシャの自害の様子の根拠がよくわからないというのは驚きですし、創作かもしれないという思いにとらわれました。
「霜女覚書」では、小笠原が玉子の自害の介錯をおこなったとあり、玉子が「みずからわが身を刺したのか、他人に刺し殺させたたのか」、「どちらにも解釈できる文章」だと金子氏は書いておられます。
一方、太田牛一の記した「関ヶ原御合戦双紙」の「蓬左文庫本」の中では、細川ガラシャの自害の様子を「南無阿弥陀仏を最後にて、刀を胸に押しあててうつぶせに倒れた」とあります。キリシタンの彼女が南無阿弥陀仏と唱えたことに金子氏は疑問に感じられているものの、「自害に追いつめられた人間が末期に唱える言葉が『南無阿弥陀仏』であり、「玉子がキリシタンであるかどうかは関係なく、こういう紋切り型を使ってしまったのだろう」と推測しておられます。
また太田牛一は明智光秀の死とその娘の死を因果応報的に捉え、牛一の著作全体が天道思想に貫かれており、「玉子が自害したという内容はそのまま鵜呑みにはできないかもしれない」と金子氏は指摘しておられます。
もっとも、牛一が「慶長5年7月の時点において」「上方にいたのは確実だろう」ともあり、牛一が「坪内利定宛の書状からは、関ヶ原の戦いの後の時点でまさに細川屋敷があった大坂玉造に住んでいたことがわかっている」と「記憶の歴史学」に書かれています。
「蓬左文庫本」では、毛利輝元の大坂城入城、及び玉子の自害を7月15日のこととして書かれています(実際は輝元が広島を出発したのが15日です)が、「関ヶ原御合戦双紙」の「大和文華館本」では19日とあり、毛利輝元入城については「義演准后日記」でも19日と書かれています。もっとも、玉子の自害の日については、「言経卿記」の記述、及び「細川家に残る史料によれば、命日は17日となっている」ことからして、17日と金子氏は考えておられます。
「大和文華館本」は、家康が上杉攻めに江戸に下向する慶長5年6月から始まり、三成が処刑される10月1日をもって終わっていますが、「蓬左文庫本」はこれに「関ヶ原の戦い以後の記事を大幅に増補したもの」という関係になることも「記憶の歴史学」には書かれています。
その「忠興公譜」には、小笠原が玉子の胸を突いたなどという具体的な描写がありますが、それがどういう根拠に基づくものかは不明だと金子拓氏の「記憶の歴史学」の中で指摘しておられます。今日、通説となっている細川ガラシャの自害の様子の根拠がよくわからないというのは驚きですし、創作かもしれないという思いにとらわれました。
「霜女覚書」では、小笠原が玉子の自害の介錯をおこなったとあり、玉子が「みずからわが身を刺したのか、他人に刺し殺させたたのか」、「どちらにも解釈できる文章」だと金子氏は書いておられます。
一方、太田牛一の記した「関ヶ原御合戦双紙」の「蓬左文庫本」の中では、細川ガラシャの自害の様子を「南無阿弥陀仏を最後にて、刀を胸に押しあててうつぶせに倒れた」とあります。キリシタンの彼女が南無阿弥陀仏と唱えたことに金子氏は疑問に感じられているものの、「自害に追いつめられた人間が末期に唱える言葉が『南無阿弥陀仏』であり、「玉子がキリシタンであるかどうかは関係なく、こういう紋切り型を使ってしまったのだろう」と推測しておられます。
また太田牛一は明智光秀の死とその娘の死を因果応報的に捉え、牛一の著作全体が天道思想に貫かれており、「玉子が自害したという内容はそのまま鵜呑みにはできないかもしれない」と金子氏は指摘しておられます。
もっとも、牛一が「慶長5年7月の時点において」「上方にいたのは確実だろう」ともあり、牛一が「坪内利定宛の書状からは、関ヶ原の戦いの後の時点でまさに細川屋敷があった大坂玉造に住んでいたことがわかっている」と「記憶の歴史学」に書かれています。
「蓬左文庫本」では、毛利輝元の大坂城入城、及び玉子の自害を7月15日のこととして書かれています(実際は輝元が広島を出発したのが15日です)が、「関ヶ原御合戦双紙」の「大和文華館本」では19日とあり、毛利輝元入城については「義演准后日記」でも19日と書かれています。もっとも、玉子の自害の日については、「言経卿記」の記述、及び「細川家に残る史料によれば、命日は17日となっている」ことからして、17日と金子氏は考えておられます。
「大和文華館本」は、家康が上杉攻めに江戸に下向する慶長5年6月から始まり、三成が処刑される10月1日をもって終わっていますが、「蓬左文庫本」はこれに「関ヶ原の戦い以後の記事を大幅に増補したもの」という関係になることも「記憶の歴史学」には書かれています。
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