石田三成の実像808 京都探訪78  「瑞泉寺」6「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文5 高瀬川開鑿

 
画像
 写真は瑞泉寺の門を撮ったものです。門の提灯に豊臣家の桐の紋が描かれています。門の奥に見えているところに、秀次事件関連の資料が多く掲示されています。秀次が処刑された当時、鴨川の河原は現在の河原町まで広がっていて、川の流れもいく筋かあり、このあたりは大きな中州(中の島)の荒れ河原だったと、境内の説明掲示板に書かれています。
  「木屋町絵図Ⅱ」に掲載されている「瑞泉寺縁起絵巻」の9枚目の絵ですが、高瀬川開鑿工事を指揮する角倉了以の姿が描かれています。了以が「瑞泉寺縁起絵巻」では僧衣をまとった姿として描かれていることも説明されていますが、大悲閣千光寺の角倉了以像も僧衣姿(むろん、瑞泉寺の角倉了以像もそうですが)であり、了以は出家していたというより、了以に慈悲の心を見たからそういう姿で描いたのでしょうか。
 10枚目の絵は、木屋町通に活気が溢れ、高瀬舟に荷を積み、町衆たちが仕事に精を出す様子が描かれ、高瀬川の開鑿が京の町に交易の力をもたらすとも書かれています。
 このあたりの事情について、同じ「木屋町絵図Ⅱ」の中で、角倉宗家17代の角倉吾郎氏が「高瀬川と木屋町通」と題して書いておられます。慶長15年に了以は大仏殿修復のために鴨川に通船しましたが、鴨川は氾濫が多かったため、もっと安全で安定的に物流が運べる運河が必要だと考え、高瀬川を開く事業を構想したと云います。それまでは、大坂からの物資は、淀川水運によって伏見まで運び、そこから京都までは人馬で運ばれていました。
 「高瀬川と木屋町通」には、了以が7万5000両ともいわれる私財を投じて高瀬川を開鑿し、慶長16年に二条から五条までが開通し、木屋町通もこの時誕生し、慶長19年には伏見までの約10キロすべてが開通したとあります。
 11枚目の絵には、石組みされた高瀬川の川岸、三条大橋、三条小橋、往来する人々、車道を行く牛車などが描かれています。当時、荷車は橋上を通行するのを禁止され、鴨川を横断したとも書かれています。
 三成は関ヶ原の戦いの後、六条河原で処刑され、首を三条大橋のたもとにさらされましたが、慶長5年(1600)当時の三条大橋あたりの様子がどのようなものであったか、この絵とどういうふうに違っていたのか(むろん、高瀬川はありませんでしたが)、秀次処刑当時と同じような様子だったのか、大いに気になりました。三条大橋を改修したのは増田長盛であり、天正18年(1590年)のことでした。京都を改造して現在あるような姿にしたのは秀吉ですが、三条大橋の改修もその一つです。もっとも、その後、何度も架け替えは行われていますが。
 三成が処刑された10月1日、秀吉を祀る豊国社では、いつも通り朔日(ついたち)恒例の祭祀が執り行われていたとオンライン三成会編「新装版 三成伝説」及び「三成伝説」の「山城・京」の章に書かれています。

"石田三成の実像808 京都探訪78  「瑞泉寺」6「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文5 高瀬川開鑿" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。