石田三成の実像821 「春季堺文化財特別公開 」4 「大安寺」の寺宝・「黄金の日日」の助左衛門と三成

画像
 写真は大安寺の境内にあった「虹の手水鉢」を撮ったものです。大安寺のパンフレットの説明文によれば「側面に虹のような模様が浮き上がったため、明治天皇の行幸の際に、『虹の手水鉢』と名づけられた利休好の名品」と書かれています。
 今回の「春季堺文化財特別公開 小西行長と堺ゆかりの戦国武将」で、千利休屋敷跡や利休広場の方には行きませんでした。時間がなかったからであり、利休屋敷跡も今まで幾度となく見ていすからでもあります。南宗寺にも行きませんでした(利休一族の墓があります)から、今回は結果的に利休関連のところは少ししか行かなかったということになります。
 大安寺の本堂の柱に刀傷が残っていますが、松永久秀が「盈(み)つれば缺(か)ける」と言って柱に切り付けたと伝わりますが、これが本当の話かどうかはわかりません。しかし、こういうところに、松永久秀ゆかりのものが残っているというのも一興です。
 今回の特別公開には含まれていませんでしたが、パンフレットに寺宝として「呂宋(るそん)壺」の写真が載っており、「納屋(呂宋)ルソン助左衛門が所持していたと伝わっている壺」だと書かれています。助左衛門が持ち帰ったことは確かめられないものの、「東南アジアあたりで使われていた生活雑器の壺だったようです」、「肩から銅にかけての白土釉が景色となり、全体は素焼き風な味わいのある美しい形の壺」とも記されています。下の方は緑っぽく見えますが、実際の色合いはどうでしょうか。
 「鳳凰香炉」の写真も載っていますが、「長短12足の置香炉」であり、「蓋のつまみに鳳凰をあしらい、丸銅にはその羽根を回した面白いデザインです。」「海外からもたらされたものでしょうか」と説明されています。南蛮貿易の中心的な役割を果たした堺の姿が、これらの名品から垣間見えます。
 大河ドラマ「黄金の日日」では、関ヶ原の戦いにおける助左衛門と三成の絡みはほとんどありませんでしたが、原作である城山三郎氏の小説では違っています。関ヶ原の戦いの前に助左衛門は三成のいる大垣城に駆けつけ、家康の寿命が尽きるはずだから、その時をルソンで待てばいいと言いますが、これには伏線がありました。秀吉がキリシタン弾圧に乗り出したことで、助左衛門が秀吉に反発するようになり、秀吉に逮捕されそうになった時、三成は事前に助左衛門に知らせ、秀吉の寿命が尽きるまで待てと言います。助左衛門はその忠告を受け入れますが、一方、三成の方は武将だからか、助左衛門の忠告に応じません。これら一連の場面はフィクションですが、秀吉晩年の政策を三成がよしと思っていないという描き方は評価できます。関ヶ原の戦いに三成が敗れたことを知った助左衛門が、急いで関ヶ原まで出向くという場面も小説ではありましたが、主人公を歴史的事件に無理に絡ませようとするやり方はすでにこの頃から行われていたということを知らされました。

"石田三成の実像821 「春季堺文化財特別公開 」4 「大安寺」の寺宝・「黄金の日日」の助左衛門と三成" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。