石田三成の実像837 「春季堺文化財特別公開」14 清学院・三成が奉行所内に勧請した天白稲荷社
たけだ 写真は清学院を撮ったものです(ここも当日は、観光ボランティアの人の解説がありました)。山口家住宅から清学院まで歩いて10分ぐらいの距離ですが、途中で道に迷い、20分以上かかってしまいました。いただいたパンフレットによると、「清学院は弘法大師堺21ヶ所霊場の15番札所とされ、天保15年(1844年)に奉納された札所木札が残されていることから、この頃までには霊場が成立していたことがわかります」と書かれています。また「清学院は江戸時代、醍醐寺三宝院門跡を中心とした修験道『当山派』に属していた」とも記されています。
狭い堂内にたくさんの仏像が安置されており、間近で拝観できました。真ん中に不動明王二童子像、その前に弁財天三尊像、不動明王二童子像を間に挟んで、弘法大師坐像、三宝荒神三猿像、役行者(修験道の開祖)像、理源大師(醍醐寺の開祖)像が並んでいました。普段、この堂内には入れず、下のところから拝むだけなのだそうですが、今回は特別公開のため至近距離で見ることができました。清学院は普段も入館することができます。
江戸後期から明治初期にかけて清学院は寺子屋としても利用されていたと云います。その清学院から歩いて5分ぐらいのところに高須神社があり、高須神社の中に合祀されている天白稲荷社を拝観して、今回(5月23日) の堺めぐりの締めくくりとしました。
天白稲荷神社については、2009年9月19日付拙ブログで写真と共に紹介し、その繰り返しになっているとこともありますが、一部誤りがあり考え直さねばならないところもありますので、改めて記しておきます。
天白稲荷社はもともと堺奉行所の中にあったものですが、明治時代に高須神社に合祀されました。「堺市史」によると、三成が堺奉行(当時は堺政所と呼ばれていました)をしていた時に鎮守として勧請したものだと書かれています。この稲荷神社は社殿壮麗を極め、徳川幕府の時代になってからも、代々この神社を篤く崇敬したということです。三成は天正5年2月に石灯籠を天白稲荷神社に寄進しています(2009年9月19日付拙ブログでは天正15年としていましたが、これは間違いですので、お詫びして訂正します)。
「堺市史」によれば、三成が堺奉行の任にあったのは、天正14年から16年までであり、その間に石灯篭を寄進したと以前は錯覚していたのですが、寄進の日は確かに天正5年2月とあります。
天正5年と云えば、三成18歳の時であり(この石灯籠寄進が事実とすると、三成が仕官したのは15歳という説の方が妥当性があるのではないかと今年6月7日付拙ブログで述べました)、この時から三成と天白稲荷神社の関係が始まったのでしょうか。そういう関係があって、後に三成が天白稲荷神社を勧請したのでしょうか。大谷吉継が天白稲荷神社に石灯籠を寄進したのは天正9年2月ですから、吉継と堺奉行との関係から云えば、これも早い接点だと云えます。
「堺市史」によれば、大谷吉継が堺奉行を天正17年に受け継ぎ、さらにその後、三成の兄である石田正澄が文禄3年から慶長4年まで堺奉行を務めたと書かれています。石田正澄が天白稲荷神社に石灯籠を寄進したのは文禄2年2月と記されています。もっとも、三成の兄の正澄が堺奉行を引き継いだのは天正16年だともいわれており、オンライン三成会編「新装版 三成伝説」及び「三成伝説」では天正16年と書かれています。
狭い堂内にたくさんの仏像が安置されており、間近で拝観できました。真ん中に不動明王二童子像、その前に弁財天三尊像、不動明王二童子像を間に挟んで、弘法大師坐像、三宝荒神三猿像、役行者(修験道の開祖)像、理源大師(醍醐寺の開祖)像が並んでいました。普段、この堂内には入れず、下のところから拝むだけなのだそうですが、今回は特別公開のため至近距離で見ることができました。清学院は普段も入館することができます。
江戸後期から明治初期にかけて清学院は寺子屋としても利用されていたと云います。その清学院から歩いて5分ぐらいのところに高須神社があり、高須神社の中に合祀されている天白稲荷社を拝観して、今回(5月23日) の堺めぐりの締めくくりとしました。
天白稲荷神社については、2009年9月19日付拙ブログで写真と共に紹介し、その繰り返しになっているとこともありますが、一部誤りがあり考え直さねばならないところもありますので、改めて記しておきます。
天白稲荷社はもともと堺奉行所の中にあったものですが、明治時代に高須神社に合祀されました。「堺市史」によると、三成が堺奉行(当時は堺政所と呼ばれていました)をしていた時に鎮守として勧請したものだと書かれています。この稲荷神社は社殿壮麗を極め、徳川幕府の時代になってからも、代々この神社を篤く崇敬したということです。三成は天正5年2月に石灯籠を天白稲荷神社に寄進しています(2009年9月19日付拙ブログでは天正15年としていましたが、これは間違いですので、お詫びして訂正します)。
「堺市史」によれば、三成が堺奉行の任にあったのは、天正14年から16年までであり、その間に石灯篭を寄進したと以前は錯覚していたのですが、寄進の日は確かに天正5年2月とあります。
天正5年と云えば、三成18歳の時であり(この石灯籠寄進が事実とすると、三成が仕官したのは15歳という説の方が妥当性があるのではないかと今年6月7日付拙ブログで述べました)、この時から三成と天白稲荷神社の関係が始まったのでしょうか。そういう関係があって、後に三成が天白稲荷神社を勧請したのでしょうか。大谷吉継が天白稲荷神社に石灯籠を寄進したのは天正9年2月ですから、吉継と堺奉行との関係から云えば、これも早い接点だと云えます。
「堺市史」によれば、大谷吉継が堺奉行を天正17年に受け継ぎ、さらにその後、三成の兄である石田正澄が文禄3年から慶長4年まで堺奉行を務めたと書かれています。石田正澄が天白稲荷神社に石灯籠を寄進したのは文禄2年2月と記されています。もっとも、三成の兄の正澄が堺奉行を引き継いだのは天正16年だともいわれており、オンライン三成会編「新装版 三成伝説」及び「三成伝説」では天正16年と書かれています。
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