石田三成の実像1088 山田喜雄氏より妙高「グループ三成」会の資料ご恵贈 忠輝重臣寄進の絵馬像
山田喜雄氏から、妙高温泉の石田館妙高ホテルで6月29日に開かれた妙高「グループ三成」会の資料をお送りいただきました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。
資料として「松平上総介忠輝の越後府中八幡宮御寄進の御絵馬」と「文豪・夏目漱石の、越後新潟・高田、そして妙高」が載っており、いずれも興味を惹かれる内容でしたが、後者については改めて拙ブログの文学探訪の方で紹介させていただきます。
「松平上総介忠輝の越後府中八幡宮御寄進の御絵馬」は、「松平上総介忠輝公の越後福島城主就任に際し、四人の重臣連名で主君忠輝公と府民の安寧を祈願し、越後府中八幡宮御に従者つき御絵馬を寄進した」もので、資料には御絵馬像と御神馬定書の写真も掲載されています。寄進したのは「慶長15年(1610)8月22日」であり、寄進者の中に、「隼人正(村松城代)」の名があり、この人物は「山田惣左衛門隼人正勝重」のことであり、白川亨氏は三成の長女が嫁いだのが山田隼人正であるという見解を示しておられ、さらに「佐和山落城記」の筆者である山田喜庵の父である山田隼人と同一人物であると論じておられました。
これに対して、山田喜雄氏が二人が別人であるとの説を唱えられていることは拙ブログでも取り上げましたが、今回、この寄進絵馬のことを知って、同一人物説は誤りである確信を得たとお手紙に書いておられます。
すなわち、「佐和山落城記」には、山田隼人は「慶長15年、関東へ下り、周易墨占を世渡りとす」とあり、さらに山田隼人は後に大坂の陣に加わり、慶長19年の夏の陣で、木村長門守の備えに加わり、戦死と記されています。
一方、三成の娘婿である山田隼人正について、白川氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)には、「元和2年(1616)、忠輝が改易にされた後、山田隼人正は浪人し、その妻との所縁(辰姫の姉との関係で)によって、津軽家から150石の合力米を支給され、山田草山と号して江戸の市井(早稲田)に住み、明暦元年(1655)5月17日、80歳の長寿を保ち江戸で没している」と記されています。
全然違う二人の姿ですが、白川氏の同書では、「旅の途中に親しくなった、ある医師に宇吉郎(後の喜庵)に将来を託し、山田隼人親子は永遠に別れた」ため、「その後の山田隼人の消息は、あくまでも喜庵の想像によるもの」と記されています。すなわち、隼人が大坂夏の陣で戦死したのは事実ではないというわけです。
しかし、「佐和山落城記」に慶長15年と明記されているのが気になりますし、「宇吉郎に医術を習わせ、北総深井の里に住す」とも記されており、この記述から隼人も一時期、深井に住んでいたということは考えられないのでしょうか。
資料として「松平上総介忠輝の越後府中八幡宮御寄進の御絵馬」と「文豪・夏目漱石の、越後新潟・高田、そして妙高」が載っており、いずれも興味を惹かれる内容でしたが、後者については改めて拙ブログの文学探訪の方で紹介させていただきます。
「松平上総介忠輝の越後府中八幡宮御寄進の御絵馬」は、「松平上総介忠輝公の越後福島城主就任に際し、四人の重臣連名で主君忠輝公と府民の安寧を祈願し、越後府中八幡宮御に従者つき御絵馬を寄進した」もので、資料には御絵馬像と御神馬定書の写真も掲載されています。寄進したのは「慶長15年(1610)8月22日」であり、寄進者の中に、「隼人正(村松城代)」の名があり、この人物は「山田惣左衛門隼人正勝重」のことであり、白川亨氏は三成の長女が嫁いだのが山田隼人正であるという見解を示しておられ、さらに「佐和山落城記」の筆者である山田喜庵の父である山田隼人と同一人物であると論じておられました。
これに対して、山田喜雄氏が二人が別人であるとの説を唱えられていることは拙ブログでも取り上げましたが、今回、この寄進絵馬のことを知って、同一人物説は誤りである確信を得たとお手紙に書いておられます。
すなわち、「佐和山落城記」には、山田隼人は「慶長15年、関東へ下り、周易墨占を世渡りとす」とあり、さらに山田隼人は後に大坂の陣に加わり、慶長19年の夏の陣で、木村長門守の備えに加わり、戦死と記されています。
一方、三成の娘婿である山田隼人正について、白川氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)には、「元和2年(1616)、忠輝が改易にされた後、山田隼人正は浪人し、その妻との所縁(辰姫の姉との関係で)によって、津軽家から150石の合力米を支給され、山田草山と号して江戸の市井(早稲田)に住み、明暦元年(1655)5月17日、80歳の長寿を保ち江戸で没している」と記されています。
全然違う二人の姿ですが、白川氏の同書では、「旅の途中に親しくなった、ある医師に宇吉郎(後の喜庵)に将来を託し、山田隼人親子は永遠に別れた」ため、「その後の山田隼人の消息は、あくまでも喜庵の想像によるもの」と記されています。すなわち、隼人が大坂夏の陣で戦死したのは事実ではないというわけです。
しかし、「佐和山落城記」に慶長15年と明記されているのが気になりますし、「宇吉郎に医術を習わせ、北総深井の里に住す」とも記されており、この記述から隼人も一時期、深井に住んでいたということは考えられないのでしょうか。
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