石田三成の実像1116 真田井戸・真田の抜け穴・「真田氏史料集」の「関ヶ原の役と上田籠城」の書状3
写真は上田城跡公園内にある真田神社裏手の真田井戸を9月6日に撮ったものです。上田・城下町活性会発行のマップ「上田城」には、「城内唯一の大井戸でもあった。この井戸からは抜け穴があって、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの伝説もある」と記されています。「真田の抜け穴」といわれるものが他にも真田氏ゆかりの地にありますが、真田ならそういう抜け穴を作っていたのではないかという民衆の思いや願望の表われではないでしょうか。
関ヶ原の戦いの後、真田昌幸と幸村(信繁)が流された九度山の真田庵から200メートル程離れたところに「真田の抜け穴」と呼ばれるものがあり、幸村はこの抜け穴から脱出して大坂城に入城したと伝わっています。もっとも、実際は古墳の入口ということですが。
また大阪の三光神社の境内にも「真田の抜け穴」があり、大坂城に通じていたと云われています。もっとも、この穴は実際は途中で行きどまりになっており、また他にも大坂城周辺にかつてはあった十数ケ所の「真田の抜け穴」と云われるものは、「いずれも徳川方が大坂城に向けて掘った穴の跡と思われる」と、橋場日月氏の「知れば知るほど面白い 人物歴史丸ごとガイド 真田幸村」(学研)に記されています。
さて、上田市立博物館発行の図録「真田氏史料集」の「関ヶ原の役と上田籠城」に慶長5年(1600)7月24日付の真田信之宛徳川家康書状が掲載されています。その解説に、「昌幸・幸村父子は、大坂方に味方すべく、上田に向けて帰ったが、信之は父弟とたもとを分かち、そのまま徳川方に留まった。そこで家康が、信之の忠節を賞して、与えたものである」と記されています。この書状も長野市松代町の真田宝物館が所蔵しています。
「昌幸・幸村父子は、大坂方に味方」したという理由について、昌幸がこの機会に大望を成し遂げようとしたからだということ、昌幸が年来家康に恨みを持っていたからだということ、幸村が大谷吉継の娘を娶っていること(これらの点は平山優氏の「真田三代」(PHP新書)の中で、軍記物のそういう記述内容が紹介されています)に加えて、昌幸夫人(山之手殿)と三成夫人が共に宇多頼忠の娘であったという姻戚関係も大きかったからだということが云われていましたが、昌幸夫人が宇多頼忠の娘であったことについては、疑問が呈せられています。
前にも触れたことですが、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、「かつては昌幸の正室が宇多頼忠の娘であるとも言われたが、年齢などからして今は否定されている」と記されています。年齢からやはりおかしいと気づかれたのは白川亨氏で、「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、昌幸夫人は「宇多下野守頼忠の妹ではないかと考えている」「真田昌幸夫人は三成夫人の叔母とすべきであろう」と新たな見解が示されています。
これも前に触れたことですが、平山氏の「真田三代」には「もし『山之手殿』が宇田氏出身であれば、三成と昌幸の関係や、人質を特別に扱っていることなども理解しやすい。ただし確証に欠ける。記して後考をまちたい」と記されています。
関ヶ原の戦いの後、真田昌幸と幸村(信繁)が流された九度山の真田庵から200メートル程離れたところに「真田の抜け穴」と呼ばれるものがあり、幸村はこの抜け穴から脱出して大坂城に入城したと伝わっています。もっとも、実際は古墳の入口ということですが。
また大阪の三光神社の境内にも「真田の抜け穴」があり、大坂城に通じていたと云われています。もっとも、この穴は実際は途中で行きどまりになっており、また他にも大坂城周辺にかつてはあった十数ケ所の「真田の抜け穴」と云われるものは、「いずれも徳川方が大坂城に向けて掘った穴の跡と思われる」と、橋場日月氏の「知れば知るほど面白い 人物歴史丸ごとガイド 真田幸村」(学研)に記されています。
さて、上田市立博物館発行の図録「真田氏史料集」の「関ヶ原の役と上田籠城」に慶長5年(1600)7月24日付の真田信之宛徳川家康書状が掲載されています。その解説に、「昌幸・幸村父子は、大坂方に味方すべく、上田に向けて帰ったが、信之は父弟とたもとを分かち、そのまま徳川方に留まった。そこで家康が、信之の忠節を賞して、与えたものである」と記されています。この書状も長野市松代町の真田宝物館が所蔵しています。
「昌幸・幸村父子は、大坂方に味方」したという理由について、昌幸がこの機会に大望を成し遂げようとしたからだということ、昌幸が年来家康に恨みを持っていたからだということ、幸村が大谷吉継の娘を娶っていること(これらの点は平山優氏の「真田三代」(PHP新書)の中で、軍記物のそういう記述内容が紹介されています)に加えて、昌幸夫人(山之手殿)と三成夫人が共に宇多頼忠の娘であったという姻戚関係も大きかったからだということが云われていましたが、昌幸夫人が宇多頼忠の娘であったことについては、疑問が呈せられています。
前にも触れたことですが、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、「かつては昌幸の正室が宇多頼忠の娘であるとも言われたが、年齢などからして今は否定されている」と記されています。年齢からやはりおかしいと気づかれたのは白川亨氏で、「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、昌幸夫人は「宇多下野守頼忠の妹ではないかと考えている」「真田昌幸夫人は三成夫人の叔母とすべきであろう」と新たな見解が示されています。
これも前に触れたことですが、平山氏の「真田三代」には「もし『山之手殿』が宇田氏出身であれば、三成と昌幸の関係や、人質を特別に扱っていることなども理解しやすい。ただし確証に欠ける。記して後考をまちたい」と記されています。
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