石田三成の実像1128 芳泉寺山門・「真田氏史料集」の「真田信之夫人大蓮院」3 三成の戒名の「江東」

 
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 写真は上田市にある芳泉寺の山門を撮ったものです。光線が入って見にくくなっていますが、真田家の六連銭(六文銭)の紋と徳川家の三つ葉葵の紋が付いています。少し隠れていますが、写真に向かって右側に永楽通宝紋が見えます。これは仙石家の紋です。
 さて、上田市立博物館発行の「真田氏史料集」の「真田信之夫人大蓮院」には、大英院蔵大蓮院資料として、「澒門の会図」が載っています。解説文には、「大蓮院の所用という枕屏風を、掛軸に表装し直したもの。勇壮を好んだという大蓮院らしい図柄である。伝狩野永徳筆」と記されています。
 澒門の会で項羽と劉邦が会見し、その様子を描いた司馬遷の「史記」は、今でも高校の漢文の授業で扱われることが多いのではないでしょうか。私も現役の教員だったころ、何回も「澒門の会」や「四面楚歌」「項羽の最期」のところを扱いました。項羽と劉邦は秦の後の天下を争った二人の英雄であり、最後は劉邦が勝って漢王朝を打ち立てました。
 ところで、三成の戒名に付けられている「江東院殿」について、東野文恵(ひがしのぶんえい)氏の「死の時まで再起の夢を捨てず」(「歴史と旅」1999年4月号所収)に、「江東」は項羽を意識したものではないかということが指摘されています。素直に考えれば、「琵琶湖の東側という意味が『江東』で」、「三成の居城佐和山城(現彦根市)も出生地も琵琶湖の東側にある」ことからの命名です。しかし、東野氏の同書には、三成と項羽の共通点について、「彼らの人生を決定づける場所の名前が、同じく『江東』であること」、「歴史上、名が残るような覇権争いをしたこと」、「しかも味方の反逆によって負けたということ」、「もし勝っていたなら、その後の歴史は大きく変わったいたに違いないということ」、「決定的なものは、死の間際まで再起の望みを捨てなかった三成の人間像と、杜牧が項羽に対して抱いた再挙兵の願望、と同時に死の瞬間まで渾身の努力をするのが人間だという杜牧の人間観が一致するように思われる」という点が挙げられています。
 杜牧は「烏江亭と題す」という、項羽のことに思いを馳せた詩を詠みましたが、東野氏の同書ではその唐詩が取り上げられ、次のように現代語訳されています。「勝負というものは優れた兵法家でも予期できないものだ。恥を忍ぶことこそが男というものではないか。項羽よ、江東の多くの若者と共にどうして再起を計らなかったのだ。一度失敗しても、勢いを盛り返してきたなら、結果はどうなっていたか分からなかったものを」と。
 、「史記」によれば、実際の項羽は、烏江の宿場の長に舟に乗って川を渡り、江東の地で再起を計るように勧められたものの、「挙兵した時連れて行った江東の8千人の若者がみんな死んだのに、自分一人だけ江東に帰っても、若者たちの家族にどうして顔を合わせられようか、いや合わせられない」などと言って断り、追ってきた劉邦の軍と壮絶な戦いをして、自刎しました。
 三成の戒名を付けたのは、師の春屋宗園ですが、確かにそういう項羽のことも頭にあったかもしれませんし、私も漢文で「項羽の最期」を扱う時は、三成の戒名のことに触れたことが一度ならずあります。 

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