石田三成の実像1136 手作りの三成甲冑・上田の幸村銅像 「真田氏史料集」の「真田幸村と大坂の役」
10月9日の朝日新聞夕刊の「まちの埋蔵文化人」の欄で、甲冑愛好家が集う「甲援(こうえん)隊」を主宰する片山洋一さんが取り上げられ、「自作した、石田三成のものと伝えられる型の甲冑を着る片山洋一さん」の写真が掲載されています。大阪市中央区の自室を「武家屋敷風にこしらえ、手作りのよろいかぶとが林立」していること、「この10年で13作品を作った」ことなどが記されています。
この三成甲冑は大河ドラマ「葵 徳川三代」以来、すっかり有名になった、乱髪に天衝き脇立兜です。この兜は三成所用と伝わる彦根藩・史料研究所蔵に基づくものです。
もう一つ三成所用と伝わる日輪の前立の兜が紀州藩砲術指南役を務めた宇治田家に残っています。「歴史街道 2010年9月号」の「石田三成の真実」にこの甲冑が掲載されていますが、「関ヶ原合戦後、浅野幸長から拝領したと伝えられる」と記されています。さらに、島津側の史料「神戸久五郎覚書」に、三成の甲冑として、「黒具足、甲の立物には水牛の角立物仕り候」との記述があることにも言及され、この宇治田家に伝わる「甲冑をベースに、水牛の角の立物を加えた姿を推定復元し」、そのCG写真が掲載されています。
写真は上田城駅前にある真田幸村銅像を9月6日に撮ったものです。
上田市立博物館発行の図録「真田氏史料集」の「真田幸村と大坂の役」の解説文の最後に、幸村の討死について、「長く流人として不本意な生活を送っていた幸村にとっては、良い死に場所を得て、名将幸村の名を後世に残すことができたとも言える」と記されています。
「真田氏史料集」の「真田幸村と大坂の役」には、年次不詳の3月25日付の真田信之宛真田昌幸書状が掲載されていますが、その解説文の中で、「筆跡・内容からみて、幸村(信繁)の代筆とみられているもの。追って書き(追伸)のなかで、『次に左衛門佐(幸村)慮外ながら御言伝申し入れ候』として、永年の蟄居生活で、くたびれはてている旨、記している。年次は昌幸の死去した慶長16年(1611)かその前年と推定されている」と記されています。
この書状は笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)でも取り上げられ、「九度山における不自由な状況が述べられ、しかも老齢で根気が続かなくなった様子が示されている」、「徳川秀忠軍を敵に回してあれだけの活動をした昌幸も、山の中で幽閉され、不自由な中で、年齢がかさみ、ものごとに耐えうる気力がくたびれ、次第に年老いていったのである」と記されています。またそのことを示す年次不詳の4月27日付の真田信之宛真田昌も引用されています。
この4月27日付の真田信之宛真田昌幸書状は、柴辻俊六氏の「真田昌幸」(吉川弘文館)で取り上げられ、「ここには親として子供を思う心情のみが吐露されており、なんとしても一度会いたいとの願いが素直にのべられている。しかしそれも実現しないまま、この一ヶ月余の後に昌幸は病死している」と記されています。
この三成甲冑は大河ドラマ「葵 徳川三代」以来、すっかり有名になった、乱髪に天衝き脇立兜です。この兜は三成所用と伝わる彦根藩・史料研究所蔵に基づくものです。
もう一つ三成所用と伝わる日輪の前立の兜が紀州藩砲術指南役を務めた宇治田家に残っています。「歴史街道 2010年9月号」の「石田三成の真実」にこの甲冑が掲載されていますが、「関ヶ原合戦後、浅野幸長から拝領したと伝えられる」と記されています。さらに、島津側の史料「神戸久五郎覚書」に、三成の甲冑として、「黒具足、甲の立物には水牛の角立物仕り候」との記述があることにも言及され、この宇治田家に伝わる「甲冑をベースに、水牛の角の立物を加えた姿を推定復元し」、そのCG写真が掲載されています。
写真は上田城駅前にある真田幸村銅像を9月6日に撮ったものです。
上田市立博物館発行の図録「真田氏史料集」の「真田幸村と大坂の役」の解説文の最後に、幸村の討死について、「長く流人として不本意な生活を送っていた幸村にとっては、良い死に場所を得て、名将幸村の名を後世に残すことができたとも言える」と記されています。
「真田氏史料集」の「真田幸村と大坂の役」には、年次不詳の3月25日付の真田信之宛真田昌幸書状が掲載されていますが、その解説文の中で、「筆跡・内容からみて、幸村(信繁)の代筆とみられているもの。追って書き(追伸)のなかで、『次に左衛門佐(幸村)慮外ながら御言伝申し入れ候』として、永年の蟄居生活で、くたびれはてている旨、記している。年次は昌幸の死去した慶長16年(1611)かその前年と推定されている」と記されています。
この書状は笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)でも取り上げられ、「九度山における不自由な状況が述べられ、しかも老齢で根気が続かなくなった様子が示されている」、「徳川秀忠軍を敵に回してあれだけの活動をした昌幸も、山の中で幽閉され、不自由な中で、年齢がかさみ、ものごとに耐えうる気力がくたびれ、次第に年老いていったのである」と記されています。またそのことを示す年次不詳の4月27日付の真田信之宛真田昌も引用されています。
この4月27日付の真田信之宛真田昌幸書状は、柴辻俊六氏の「真田昌幸」(吉川弘文館)で取り上げられ、「ここには親として子供を思う心情のみが吐露されており、なんとしても一度会いたいとの願いが素直にのべられている。しかしそれも実現しないまま、この一ヶ月余の後に昌幸は病死している」と記されています。
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