石田三成の実像1215 「三成の戦2」8 しまさこにゃんと三成関連本 桐野氏の講演会4 七将事件導因
写真は「三成の戦2」の会場である清凉寺の一角で三成関連本を販売していた(?)しまさこにゃんを撮ったものです。その時のイベントからはや一週間ですが、 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)や中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)も販売されていました。太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)や冊子「MEET三成」も並んでいました。しまさこんにゃんと三成関連本との取り合わせがいかにもお似合いだという感じがしました。
さて、「三成の戦2」の午後に行われた桐野作人氏による講演会「石田三成―出頭人の素顔と自負」の中で、三成と武断派七将の因縁を示すものとして、三成派の奉行である垣見一直・福原長堯・熊谷直盛が、慶長3年5月26日付で、島津義弘・忠恒に宛てた連署状が史料として示されていました。蜂須賀家政と黒田長政が蔚山城を支援しなかったことを非難する内容で、彼らが臆病者だとして、秀吉の逆鱗に触れたことが記されています。
このことによって、処分を受けた蜂須賀家政と黒田長政の遺恨が、三奉行を差配していた三成に向かい、それが強いては武断派七将の石田三成襲撃事件を引き起こし、関ヶ原の戦いに結び付いたという見方が、桐野氏の講演会で示されていました。
こういう見方を私が最初に知ったのは、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「秀吉の野望と誤算」(文英堂)によってであり、その中で次のように記されています。
「(蔚山)籠城戦後の追撃中止をめぐる処分問題に対する遺恨こそが、豊臣七将の武力蜂起の直接の導因であった」、「七将の中に、蔚山籠城戦後の問題で譴責処分をこうむった蜂須賀家政と黒田長政の両名が含まれていることからも、同問題が今回の武力決起の原因であったことが確かに裏づけられるのである」と。
もっとも、桐野氏は仕事を厳正にし、手心を加えないのが三成の姿勢であり立場だと説明しておられました。実際、家政や長政が追撃しなかったのは事実であり、現地から奉行たちがそういう報告をしてきている以上、それを握りつぶすことは、三成としてはできなかったことだと思われます。
三成自身、文禄の役の際、奉行として朝鮮半島に渡り、その戦いの不毛さをよくわかっていましたから、本当のところは、家政や長政の行動がやむをえないことだとわかっていたでしょうが、それは口にできませんでした。そのあたりが、三成としては辛いことだったでしょうし、彼らの不満の鉾先が自分に向かうことにいたたたまれない気がしたのではないでしょうか。
後世これらのことをもって「三成の讒言」だとされるようになりますが、「讒言」とは、三省堂の「国語辞典」によれば、「事実をいつわり、また、わざと作りだして、人を悪く言うこと」とありますから、三成のしたことはそれとは大いに異なっているという印象を持ちます。
さて、「三成の戦2」の午後に行われた桐野作人氏による講演会「石田三成―出頭人の素顔と自負」の中で、三成と武断派七将の因縁を示すものとして、三成派の奉行である垣見一直・福原長堯・熊谷直盛が、慶長3年5月26日付で、島津義弘・忠恒に宛てた連署状が史料として示されていました。蜂須賀家政と黒田長政が蔚山城を支援しなかったことを非難する内容で、彼らが臆病者だとして、秀吉の逆鱗に触れたことが記されています。
このことによって、処分を受けた蜂須賀家政と黒田長政の遺恨が、三奉行を差配していた三成に向かい、それが強いては武断派七将の石田三成襲撃事件を引き起こし、関ヶ原の戦いに結び付いたという見方が、桐野氏の講演会で示されていました。
こういう見方を私が最初に知ったのは、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「秀吉の野望と誤算」(文英堂)によってであり、その中で次のように記されています。
「(蔚山)籠城戦後の追撃中止をめぐる処分問題に対する遺恨こそが、豊臣七将の武力蜂起の直接の導因であった」、「七将の中に、蔚山籠城戦後の問題で譴責処分をこうむった蜂須賀家政と黒田長政の両名が含まれていることからも、同問題が今回の武力決起の原因であったことが確かに裏づけられるのである」と。
もっとも、桐野氏は仕事を厳正にし、手心を加えないのが三成の姿勢であり立場だと説明しておられました。実際、家政や長政が追撃しなかったのは事実であり、現地から奉行たちがそういう報告をしてきている以上、それを握りつぶすことは、三成としてはできなかったことだと思われます。
三成自身、文禄の役の際、奉行として朝鮮半島に渡り、その戦いの不毛さをよくわかっていましたから、本当のところは、家政や長政の行動がやむをえないことだとわかっていたでしょうが、それは口にできませんでした。そのあたりが、三成としては辛いことだったでしょうし、彼らの不満の鉾先が自分に向かうことにいたたたまれない気がしたのではないでしょうか。
後世これらのことをもって「三成の讒言」だとされるようになりますが、「讒言」とは、三省堂の「国語辞典」によれば、「事実をいつわり、また、わざと作りだして、人を悪く言うこと」とありますから、三成のしたことはそれとは大いに異なっているという印象を持ちます。
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