石田三成の実像1249 大阪探訪48 玉造稲荷神社の胞衣塚大明神・秀頼の初参内

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写真は玉造稲荷神社の胞衣塚大明神を6月7日に撮ったものです。私の他にも参拝している人がいました。
 なお、拙ブログ記事で取り上げた豊臣秀頼銅像は大阪城築城80周年に当たる平成23年(2011)に建てられました。
さて、秀頼が初参内したのは、文禄5年(1596)5月13年のことであり、前述したように、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)の中で、豊臣秀次事件直後の文禄4年8月3日付で出された「御掟」「御掟追加」について、秀頼の初参内との関連性が指摘されています。
「御掟」と「御掟追加」については、大阪城天守閣発行の図録「特別展 五大老」に釈文が掲載されています。「豊臣家大老連署定書」と題するものであり、その解説文に「家康ら有力大名が連名で出した秀吉政権のおきて。大名家の縁組には秀吉の許可を得ること(一条目)や、大名どうしの盟約を禁止すること(二条目)など、大名を統制するための五ヶ条が定められている」などと記されています。
 「掟書」は「徳山毛利家に伝来するもの」で、連署のメンバーは、徳川家康・宇喜多秀家・前田利家・毛利輝元・小早川隆景の5人、「掟書追加」は「近江水口藩主加藤家伝来と推定されるもので」あり、この5人に上杉景勝が加わり、6人になっています。
「掟書」の釈文は、矢部氏の同書にも掲載されていますが、問題の五条目には「乗物御赦免の衆は、家康・利家・景勝・輝元・隆景」云々と記されています。
 「義演准后日記」の文禄5年5月13日条に、秀頼の初参内の折、秀吉が秀頼と同じ牛車に乗り、利家も「車尻」に乗ったと記されていることが、矢部氏の同書で取り上げられています。また家康が乗った「牛車」が秀吉から与えられていたことが、「孝亮宿禰日次記」の同日条によって判明することも矢部氏の同書で明らかにされています。
 この前後の三成の行動については、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には記載されていませんが、普通に考えれば、この儀式に参加していたものと思われます。
 矢部氏の同書では、「『掟書』『掟書追加』が混乱期に作成された可能性は全否定できないが」、それが公示されたのは、「後継者秀頼の披露」が行われた文禄5年5月の時点だと指摘されています。

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