大河ドラマ探訪253「軍師官兵衛」54 石田三成の実像1278 三成=讒言者説の踏襲に失望

 大河ドラマ「軍師官兵衛」の三成の描き方がよくないことはある程度予想されたことですが、ますますひどくなっています。これでは、これから秀吉の晩年の不祥事は、ことごとく三成が関わっていたというふうに描かれるのではないでしょうか。これでは江戸時代に作られた三成=讒言者・陰謀家説の踏襲であり、その見方から一歩も出ていません。安部龍太郎氏の「等伯」でも、そういう描き方で統一されており、深い失望感を覚えましたが、これについては、拙ブログでも以前に触れました。
 「軍師官兵衛」での三成のこういう描き方では、何より三成を演じている田中圭さんが気の毒な気がしてなりません。三成に対する思い入れが強い人ですから、演じながら三成は本当はドラマで描かれているような人物ではないと疑問に感じているのではないでしょうか。
 「軍師官兵衛」では、官兵衛が秀吉から遠ざけられているのは、三成の讒言に基づいているような描き方でした(そういう噂が広がっているのを官兵衛自身は否定していましたが)。第一、大河ドラマでは秀吉の側近として三成しかいず、他の奉行衆の姿はありません。側近としてのすべての仕事を三成をしているかのような描き方であり、これも非難の矛先が三成に向かうような意図的な設定がなされています。
 大河ドラマでは、バテレン追放令に三成が積極的にかかわっているような描き方がされていました。バテレンが大砲の船を持っていながら秀吉に渡さないこと、バテレンが長崎に領地を持っていること、キリシタンの人数が増えすぎ、一揆をおこしかねないことなどが問題視されていました(バテレン追放令については後述します)。
 三成がバテレン、キリシタンに理解を示していたことについては、拙ブログ記事でもたびたび触れています。ちなみに、2012年6月19日付記事で記したことの一部を次に記しておきます。
  「『堺市史』の26聖人殉教の際の記述の中に、在留宣教師が追放された時、『京都に潜居したオルガンチノも、石田三成の忠告に拠って長崎へ退くこととなり、堺では人目に立たぬやう四五名の日本人教徒が残るのみであった』と書かれています。
 この時、三成は一人の犠牲者も出したくなかったという見解を片岡千鶴子氏は示しておられますし、オンライン三成会編『新装版 三成伝説』及び『三成伝説』の『山城・京』の章でも、三成は犠牲者の数をできるだけ減らそうとしたことが書かれています。
 26聖人殉教の前後、小西行長は慶長の役で渡海し、日本にはいませんでしたが、慶長5年1月上洛した際(秀吉が死去した慶長3年にも朝鮮半島から引き上げ上洛しています)、大坂にしばらく滞在し、オルガンチノ(オルガンティーノ)と共にキリシタンとしての活発な活動をしていることが、鳥津亮二氏の『小西行長』に書かれています。すなわち、大坂で病院援助や捨て子救済などの慈善事業や修道院建設を実施し、堺ではキリシタン墓地を設置しました。これもキリシタン側の史料に書かれていることではありますが、オルガンチノ(オルガンティーノ)がこういう活動ができたのも、26聖人殉教の際の三成の尽力があったればこそという見方ができるのではないでしょうか。」と。
 これらのことはバテレン追放令の時のことではありませんが、三成のキリシタンに対するスタンスがうかがえるものです。大河ドラマでは、キリシタンの小西行長は登場していませんが、三成と行長の関係から見ても、キリシタンへの迫害に三成が積極的に関与していたとは思えません。
 

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