大河ドラマ探訪256「軍師官兵衛」57石田三成の実像1283「戦国無双の刀剣展」3福岡の銘・鎮房転封

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写真は備前長船刀剣美術館の「戦国無双の刀剣展」で展示されていた黒田官兵衛関連の短刀を9月4日に撮ったものです。この短刀は黒田官兵衛の武将パネルの下に展示されています。銘に「備前国福岡左兵衛尉長則 正安二年八月日」と記されていますが、正安二年は西暦1300年です。
 この短刀の説明文に「鎌倉時代後期の福岡一文字派の刀工」、「長銘で年紀あり、さらには銘文に『福岡』と刻している刀工は他にほとんど無く、資料的にも極めて貴重」などと記されています。
拙ブログで前述したように、備前長船刀剣美術館へ行くのに、香登駅から歩いたのですが、下りの次の駅である長船駅からも歩いて行けます。その長船駅から西の方に歩いていけば、福岡の地に出ます。今回は福岡には寄りませんでしたが。
 福岡と黒田氏との関係について、渡邊大門氏の「黒田重隆・小寺職隆の時代」(小和田哲男氏監修『黒田官兵衛』【宮帯出版社】所収)には、「『黒田家譜』などによ」れば、「永正5年(1508)、伊香郡黒田村(滋賀県長浜市木之本町黒田)に誕生した重隆は、やがて父・高政とともに備前国福岡(岡山県瀬戸内市長船町)に移住した。福岡藩成立後、黒田氏が筑前福崎を福岡に改称したのは、備前福岡にちなんだといわれる所以である」とあるものの、「一連の記述に関しては、少々疑問が残るところである」と記されています。同様のことは、渡邊氏の「黒田官兵衛の生涯」(『歴史読本』2013年5月号所収)でも述べられ、「おそらく黒田氏は、播磨国の一土豪であったと考えられる」と指摘されています。
 大河ドラマ「軍師官兵衛」は、黒田家の所領が播磨国から九州豊前六郡に移りました。黒田家が筑前に加増転封されるのは関ヶ原の戦いの後の論功行賞においてでした。
 大河ドラマでは代々豊崎を治めてきた宇都宮鎮房がその地を追い出され伊予に転封される命令が秀吉によって下されたため、鎮房が官兵衛から本領安堵すると約束されていたのに約束違反だと秀吉に抗議し、退出する秀吉に食い下がろうとしたところ、三成が鎮房を遮り、「無礼であるぞ。これはもう決まったこと。豊前六郡に与えられた」などと言っていました。大河ドラマでは、九州の新たな領地配分を言い渡すのも、三成の役割になっており、ここでも三成は秀吉の意向に添って動くという役目を与えられていました。
 則松弘明氏の「黒田官兵衛の豊前入国と一揆」(小和田氏監修『黒田官兵衛』所収)には、「鎮房はあくまで本領安堵を主張して移封を拒否し、絶対権力者秀吉の激怒を買ったという。黒田官兵衛の豊前入部当時、鎮房は秀吉の機嫌がなおり新たな沙汰があることを期待しながら、城井谷に蟄居していた」などと記されています。
  
 

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