大河ドラマ探訪294「軍師官兵衛」94 石田三成の実像1333 三成は挙兵後しばらく佐和山にとどまる

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 写真は佐和山城の塩硝櫓跡付近の様子を、琵琶湖一周駅伝が行われた11月23日に撮ったものです。発掘調査が行われており、保存のために青いシートがところどころにかけられています。
 12月14日に彦根で「佐和山城フォーラム2014」が開かれ、その参加申し込みをしましたが、発掘調査の報告もされるので、その成果を聴くのを楽しみにしています。
 さて、大河ドラマ「軍師官兵衛」の第48回「天下動乱」の中で、家康が江戸城で三成の挙兵を知った後、三成が大坂城に乗り込み、家康弾劾状である「内府ちがひの条々」を出すという展開になっていましたが、日にち的なことから云えば、順番が逆です。前にも述べたように、家康のもとに三成の挙兵の知らせが届いたのが7月19日であるのに対して、「内府ちがひの条々」が出されたのは7月17日です。もっとも、三成が挙兵を決めた後、大坂城に乗り込んだかどうかは史実として確認されているわけでなく、むしろ否定的な見解が桐野作人氏らによって示されています。「内府ちがひの条々」作製に三成が深く関与していたのは間違いないところですが、佐和山にとどまったまま指示を出していたのかもしれません。三成が大坂城に入ったのがはっきり確認できるのは、伏見城攻撃の後の7月30日のことです。 
 このあたりの三成の動向について、桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)の中で、「
三成が大坂に赴かず佐和山か伏見にいたと思われる」と記されていますし、その根拠として桐野氏の「
関ヶ原 島津退き口」(学研新書)には、7月18日に三成が豊国廟に軍勢を連れて参詣したという西洞院時慶の日記、「三成は美濃大垣に下向していたが、秀頼へのお目見えのため呼び戻されたという」という内容の、7月29日付けの島津忠恒宛て島津義弘書状が取り上げられています。
 また彦根で二年前に行われた桐野氏によるセミナー「歴史手習塾」の「謎解き 関ヶ原合戦」で「内府ちがひの条々」とほぼ同内容の上杉家宛ての「石田三成・増田長盛連署條目」が取り上げられ、その違いに触れられていましたが、後者は家康に対して敬語を使わないなど厳しいものになっており、前者は三成が書いたものではないと指摘されていました。
 これらのことは、拙ブログ記事で以前にも触れました。
 大河ドラマでは、大名の妻子を人質として大坂城内に移すという作戦を三成が言い出し、大名屋敷を取り囲むのは石田方の手勢だという描き方がされていましたが、そういう作戦を指示したのは三成だったという可能性はありますが、実際に動いたのは他の奉行たちではなかったでしょうか。

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