石田三成の実像1412 「かぶき者 慶次」に三成の天衝兜・「大関ヶ原展」のHPの合戦の経緯説明2

 ドラマ「かぶき者 慶次」第10回では、三成が関ヶ原の戦いで用いた甲冑が出てきていました。前田慶次がどういう経緯でその甲冑を手に入れたのかは説明されていず、不自然さを感じる場面でしたが、その三成の甲冑は大河ドラマ「葵 徳川三代」以来すっかりお馴染になった天衝脇立乱髪形兜でした。
 不自然というのは、関ヶ原の合戦当時、前田慶次は東北で最上軍と戦っており、三成は9月15日に行われた 関ヶ原の戦いに敗れて逃れた後、21日に古橋で捕縛され、10月1日には京で処刑されています。その時、慶次は東北にいたままですから、三成の甲冑をどういうふうにして手に入れたのか疑問が残ります。
 もっとも、視聴者としてはそういう細かいことは気にせず、フィクションとしてドラマの世界に没入していればいいのですが。
 「伝 石田三成」着用の天衝脇立乱髪形兜は、拙ブログ記事で前にも触れたように、彦根藩甲冑史料研究所にあります。しかし、史料からわかる、三成が着用していた兜は、水牛の角立があるものであり、それを示す史料は、桐野作人氏の「真説関ケ原合戦」(学研М文庫)などさまざまな著書で指摘されているように、島津家側の「神戸久五郎覚書」です。
 さて、「大関ヶ原展」のホームページで関ヶ原の合戦の経緯が説明されていることを拙ブログ記事で前述しましたが、小早川秀秋がいつ西軍に襲いかかったのかについては、「戦いの半ば」とあるので、はっきりしませんが、通説に従っているのかもしれません。
 この点については、白峰旬氏は関ヶ原の戦いの最初から秀秋は裏切り、戦いは瞬時に決着したという見解を示されています(「関ケ原合戦の真実」【宮帯出版社】)が、その見解について今年1月にオンライン三成会有志によるオフ会があった時に議論の対象になりました。秀秋が当初から東軍側だったという点に関しては、異議は出ませんでしたが、戦いが瞬時に決着がついたという点については、一応に否定的な意見でした。
 白峰氏の同書の中でも、一次史料には白兵戦が行われたということが記されており、それでは瞬時に決着がついたという見解とは矛盾するのではないという点が挙げられていました。また外国人宣教師などの見聞なども根拠に挙げられる点も問題とされていました。こういう点については、オンライン三成会代表幹事の中井俊一郎氏のブログ「石田三成と戦国史に関するblog」にも記されています。
 西軍はある程度善戦した(正午頃までではないとしても)のではないかと私が思う根拠の一つとして、黒田家の史料に、黒田家の家臣たちが関ヶ原の戦いの思い出を語り合った時に、嶋左近の奮闘ぶりがすさまじかったので、みんな恐怖のあまり左近の顔を覚えていなかったことが書かれていることです。むろん、これは編纂史料に書かれていることで、信憑性に乏しいと言ってしまえばそれまでですが、敢えて黒田家にそういう逸話が残されいることによっても、戦いが激しく、すぐには決着がつかなかったことを物語っているのではないでしょうか。


 

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