三成の実像2109 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」85

 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月~同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の10月2日条には、三成らの処刑について次のような記載があります。
 「石田三成・安国寺恵瓊・小西行長などの首が、三條橋下において梟首にされた、ということである」と。
 三成らの首が三條橋において梟首にされたという記述は、前述したように、各日記の10月1日条にありました。もっとも、「三條橋下」という表現は初めてですが。
 矢部健太郎氏の見解によれば、秀吉は大名家に対して「摂関成」・「清華成」・「公家成」・「諸大夫成」という厳然たる家格を創出しましたが、三成や奉行衆、小西行長は「諸大夫成」大名でした(安国寺恵瓊は僧侶ですから、これには該当しません)。関ヶ原の戦いの後、処刑されたのは「諸大夫成」大名であり、後に命を救われ流刑になった宇喜多秀家は「清華成」大名であり、「清華成」大名で処刑された者はいません。
 矢部氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)には、「秀吉は実質的な政策の遂行に参画する権力集団と、儀礼的な政治活動に参加する権威集団として、『諸大夫成』大名と『公家成』大名とを性格分けしていた可能性も想定できるだろう」と記されています。
 こういうことからすれば、「諸大夫成」大名たる三成や小西行長を見せしめにして処刑したということは、豊臣政権の政策遂行者を処断し、家康自身が政権を運営する強い意志表示をした面もあったような気がします。
 「時慶記」の同日条には、「長束正家・同直吉が昨日自害した」と記されています。
 この記述についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「この記載が正しいとすれば、長束正家の自害は10月1日ということになる」と。
 長束正家も「諸大夫成」大名であり、豊臣政権の奉行の一人でしたから、正家の首も三條橋に晒されたのて゜しょう。
 「言経卿記」の同日条には、「山科言経父子が本願寺光昭と共に大坂へ(下るために)発足し、淀から乗舟した」と記されています。前述したように、言経父子は大坂城の家康に対面するための大坂下向であり、淀から舟に乗ったわけです。
 本願寺光昭は准如上人のことであり、父親の顕如上人の没後、秀吉は一旦はタカ派の教如上人を本願寺の住持にしますが、翌文禄2年(1593)に退隠させ、ハト派の准如上人を本願寺の住持にします。三成もこの就任にかかわり、本願寺と良好な関係を築いています。教如上人が家康によって東本願寺を与えられるのは、関ヶ原の戦いの後のことです。家康は豊臣政権の大老に復帰した形でしたから、准如上人は家康に挨拶しておく必要性を感じたのでしょう。

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