石田三成の実像2171 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」1 小山評定

 渡辺大門氏編「戦国・織豊期の諸問題」【歴史と文化の研究所】所載)の中に、水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」が掲載されています。
 水野氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」を一昨年の三成祭の時に聴きましたが、その時の講演内容は、拙ブログ記事で取り上げました。水野氏の同論考も、その講演で触れられていたことと重なる部分も多いのですが、根拠となる史料もいろいろと提示されており、より詳しく論じられていまので、その内容を改めて紹介したいと思います。
まず上杉攻めに向かっていた家康が反転して上方の三成らを討ちにいくことが決定されたとされる小山評定について、その「存在に疑義を唱え」、「江戸時代の編纂史料(軍記物など)による捏造である」との白峰旬氏の見解に対し、「小山評定の存在に対して肯定的な立場をとるが、福島正則の発言に関するエピソードについては脚色と考える」という見解が示されています。
 その理由として「山内一豊が居城進上を献策した記載が『関原始末記』『石川正西聞見集』などから確認できるのに対して、福島正則の発言の登場は時代が下る」こと、「秀吉死後における対立構造の推移を踏まえると、福島正則や黒田長政らにとって、西軍に味方するという選択肢は皆無に近かったと判断できる」ことが挙げられています。
 そのことから、小山評定の実態について、「家康を盟主とする『徳川党』に属していた福島正則や黒田長政らに対して、家康が改めて去就を問うことは愚問であり、家康に味方することを前提として軍議が進行した」と、水野氏の同論考で指摘されています。
 さらに「関ヶ原の役における東西陣営のおよその枠組みは、それ以前の権力闘争の段階で既に形成されており、枠組みの整理は、小山評定あるいは石田三成の挙兵を起点とするのではなく、豊臣秀吉の死まで遡って行う必要がある。本稿では、秀吉死後の対立構造の推移を追いながら、その解明を試みた」と記されています。
 確かに、「秀吉死後の対立構造の推移」について論じるのは意義深いことであり、いろいろと教えられることも多かったのですが、「『徳川党』に属していた福島正則や黒田長政らに対して、家康が改めて去就を問うことは愚問であ」るということに対してはどうかという思いがあります。三成が挙兵し、「家康ちかひの条々」が出されることで、毛利・石田連合政権が成立し、家康は公儀性を剥奪されたというのが、白峰氏の見解ですが、私もそれに賛同しています。三成方が豊臣公儀側になったとすれば、家康も焦ったはずで、福島正則も豊臣公儀には反対できないのではないかという思いが家康にはあったのではないでしょうか。福島自身がこの事態をどう考えていたかはわかりませんが、少なくとも三成は福島も味方してくれることを期待して、福島が城主であった清洲城を開城するよう交渉していたという事実があります。
 

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