石田三成の実像2970 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」6 家康も江戸に…

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。  第13条の「石川康長(信濃国松本城主)の人質が家中共々、昨(8月)20日に私(大久保長安)の代官所の日野(武…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策10 安倍晴明神社・晴明の生誕地という伝承・「葛乃葉」「信太妻」伝説

 安倍晴明神社を訪ねたのもほぼ40年ぶりです。ここが安倍晴明の生誕地という伝承があり、「安倍晴明伝承地碑」も建っています。境内には、本殿、安倍晴明の銅像、晴明の母という伝説がある白狐の像、白狐が変身した女性「葛乃(の)葉」の絵、晴明の産湯の井跡などがあります。小さな神社であったという記憶がありますが、その通りでした。  「葛乃葉」は、…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2969 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」28 本間宏氏「上杉景勝の戦い」8 指揮を取った兼続…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康による会津攻めに対して、上杉景勝に代わって、直江兼続が軍事・外交を指揮したことについて次のように具体的に述べられています。  「徳川家康が江戸城を進発した翌日の7月22日、兼続は若松城から出陣した。兼続は出陣に先立ち、南会津を守備する大国…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策9 熊野王子社の一つとなった阿倍王子神社・同じ年に入った教員同士の結びつき

 阿倍野の鎮守の社である阿倍王子神社を訪ねたのはほぼ40年ぶりのことです。なにしろ住吉高校に転任した時に、社会科の先生に案内されて行って以来ですから。  この神社は仁徳天皇によって創建されたとも、阿倍野の地を本拠としていた古代の豪族「安倍氏」が創建したとも言われています。平安時代になり、熊野信仰が盛んになると、この場所が四天王寺と住吉…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2968 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、大坂夏の陣の、慶長20年5月6日に行われた八尾・若江の戦いに、徳川方として戦ったことが記されていますが、この戦いの記述についての解説の続きです。  「本城惣右衛門は取った首を藤堂高虎のところへ…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策8・旧制大阪高校跡・よく通っていた店は見当たらず・「雲海」でランチ・北畠公…

  晴明丘公園を東に歩いて行くと、あべの筋に突き当たりますが、そのあたりは大正時代に創立された旧制大阪高等学校があったところで、現在、跡碑が建っています。この近辺、今はスーパーやマンションが建っており、当時と雰囲気は変わっていました。旧制大阪高等学校は、後に大阪大学に包括されました。   このあたりにあった飲食店で、住吉高校勤務当時は…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2967 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」5 家康方軍勢の…

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。  第11条の「清須城(尾張国)までの道筋(の諸城)は確実に(徳川方が)受け取った」と現代語訳されている部分につ…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策7 北畠顕家と北畠親房が祀られている阿部野神社・同人誌発行のための初会合を…

 阿倍野区北畠の地名は、南北朝時代に南朝方として活躍し、若くして戦死した北畠顕家にちなみます。あべの筋沿いにある北畠公園に顕家の供養塔があり、住吉高校の西にある阿部野神社に、北畠顕家とその父親の北畠親房(「神皇正統記」を書いたことで有名です)が祭神として祀られています。住吉高校に勤めていた当時は、阿部野神社にお参りしたことはありませんが…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2966 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」27 本間宏氏「上杉景勝の戦い」7 防御に徹する景勝…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康による会津攻めに対して、上杉景勝が「白河口」の「革籠原(かわごはら)」で徳川軍を迎え撃つ準備をしていたという説は、誤りだと指摘され、実際の上杉氏の動きについての高橋明氏の見解が紹介されていることは拙ブログで前述しましたが、その上杉氏の動きについ…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策6 よく昼食を取りに行っていた相生通の店はほとんど残っていず・今もレトロな…

住吉高校は、住宅街の中にあるので、飲食店が近くにありません。そのため、在任当時、昼食は専ら校内食堂で取っていましたが、土曜日などは授業が昼までなので、同僚と外に食事に行くことがよくありました。行くとするなら、北西の相生通へ行くか、東のあべの筋の方に出るかのどちらかでした。今回、どちらの方面へも回ってみましたが、まず相生通の方へ行きました…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2965 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、大坂夏の陣の、慶長20年5月6日に行われた八尾・若江の戦いに、徳川方として戦ったことが記されていますが、この戦いの記述についての解説の続きです。  「藤堂高虎の母衣(ほろ)の衆の青木忠兵衛と大…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策5 当時の周辺住民からの苦情・「闇チャリ」という言葉・西隣は今は空き地

 大阪府立住吉高校の周辺の回りを歩いて一周してみましたが、在任当時、教員親睦のテニスをしている時、2コートしかないため、ダブルスの試合で8名までしかできず、人数が多いと待たねばならなりませんでした。冬場はその間寒いので、学校の回りを同僚とランニングして一周していました。   写真は校舎の南側を撮ったものです。高校は当時から住宅街の中…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2964 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」4 豊臣公儀方の…

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。   第6条の 「鉄炮・玉薬(=火薬)以下を付けさせて(そちら[=木曽谷]へ)送った。(それらはそちら[=木曽谷…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策4 卒業式で君が代が流された際、教職員や生徒が退出した時代・卒業証書をハン…

 いわゆる国旗・国歌法ができたのは、1999年のことですが、それより数年前に卒業式に日の丸を掲揚し、君が代を流すという問題で、住吉高校も混乱したことがあります。校長が文部省や教育委員会の意向を受けて、教職員や生徒に強制してきました。大半の教職員や生徒の自治会、生徒の部落解放研究会などが反対し、校長交渉をしたにもかかわらず、校長は強行しま…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2963 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」26 本間宏氏「上杉景勝の戦い」6 捏造された「革籠…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康による会津攻めに対して、上杉景勝が「白河口」の「革籠原(かわごはら)」で徳川軍を迎え撃つ準備をしていたという説は、誤りだと指摘され、次のように記されています。  「景勝は若松から動かず、兼続もこの方面には出陣していない(高橋明 2009c)。…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策3 創立60年記念に建てられた伊東静雄の詩碑・旧制中学教員当時の伊東・同人…

 大阪府立住吉高校の旧正門と正門の間ぐらいに、伊東静雄の詩碑が建っています(「住吉の森」と呼ばれる木立の中)。コロナ禍で校内には入れないので、柵越しに写真を撮りました。  碑には「わが死せむ美しき日のために 連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を消さずあれ」で始まる「曠野(こうや)の歌」と題する詩が刻まれていますが、創立60年記念に建立され…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2962 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、大坂夏の陣の、慶長20年5月6日に行われた八尾・若江の戦いに、徳川方として戦ったことが記されていますが、この戦いの記述についての解説の続きです。  「『惣右衛門覚書』によれば、この戦い(八尾・…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策2 スポーツや読書会・同人誌発行などを通じた教員の親睦・高津高校と同じよう…

写真は住吉高校の正門です。旧正門(1昨日の写真)から西に少し行ったところにあります。正門を入って右側(西側)が理科棟、左側が体育館(一階は下足室)、奥が玄関、本館です。この景観は、当時とほとんど同じです。    正門の北側に道を挟んで北グラウンドがあり(もっと大きな東グラウンドは校舎のそばにありますが)、部活動の部室も建っています。…
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2961 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」3 東美濃への侵…

白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。  「小笠原長巨(ながなお)を、そちら(=木曽谷)への加勢として人数(=軍勢)を遣わした」と現代語訳されてい…
コメント:0

続きを読むread more

20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策1 レトロな電停の雰囲気も校舎の様子もあまり変化なし・赴任する前に校長・教…

  大阪府立住吉高校の周辺を20数年ぶりに散策してきました。天王寺から阪堺電車に乗り、北畠駅に降り立った時から、周囲の様子は当時とあまり変わっていなかったため、時が戻ったようで、懐かしさに駆られました。レトロな電停の雰囲気と云い、そのすぐそばの道を西に入ってゆくと、すぐ左側に校門や校舎が見えるところと云い、道の右側にテニスコートが二面並…
コメント:0

続きを読むread more