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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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フランス文学探訪82 ジイド「狭き門」2 信仰の犠牲になった二人・作者の苦悩が反映 
 相思相愛の者同士がどうして結ばれないのか、読むたびにもどかしい思いがする作品です。無宗教の私などは、アリサは信仰の犠牲になったのだと、単純に考えてしまいます。現世の幸せを求めず、天上の愛にすがろうとするのは美しいことだとはいえ、主客転倒しているような気がしてなりません。  このアリサにはモデルがあって、ジイドが結婚したマドレーヌといういとこの女性ですが、小説の設定とよく似た状況になっています。男より年上であったこと、母親の不倫に苦しみ、余計信仰にすがることになったことなど。しかし、決定的に... ...続きを見る

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2019/04/24 16:44
三成の実像2613 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」5  
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、上杉景勝の動向について、次のように記されています。  「この時期、年寄のひとりである上杉景勝は領国の仕置きのため、会津にくだっていました。豊臣秀吉の訃報に接した上杉景勝は、会津の仕置きを江戸にいた徳川秀忠に依頼したうえで、9月17日、会津を出発し、10月7日に伏見に到着... ...続きを見る

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2019/04/24 10:59
石田三成の実像2612 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」5 多賀谷三経宛書状5 軍役奉仕
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)7月11日付多賀谷三経宛福原資孝書状」について次のように解説されています。  「内容的には、@家康(『内府様』より)『御蔵之儀』について『被仰遺候哉』と尋ねた、Aそれについて『竹木御用之由』について命じられたが、『我等在所』は『材木一圓』なく、『竹之儀』も細いため御用に立たない、と... ...続きを見る

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2019/04/23 16:53
フランス文学探訪81 ジイド「狭き門」1  恋人の信仰の邪魔をしているのが自分だと思い身を引く女性
 アンドレ・ジイドの小説の中で一番有名なのが、「狭き門」でしょう。今でも難関大学などに入るのは「狭き門」だという言い方をします。もともと聖書にある言葉で、「力を尽くして狭き門より入れ」というキリストの言葉から来ています。信仰に入る道がいかに困難かを述べた言葉です。  この小説の語り手はジェロームという青年ですが、彼は二つ年上のいとこのアリサのことが好きになり、彼女も同様に彼を愛するようになります。アリサの母が男と家を出てしまったということもあり、アリサはますます内向的になり、信仰によりどころ... ...続きを見る

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2019/04/23 16:43
石田三成の実像2611 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」4 多賀谷三経宛書状4 出陣予定の榊原康政
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)7月8日付多賀谷三経宛榊原康政書状」について次のように解説されています。  「内容的には、@『其元、御在番』について、『晝夜之御苦労』を察している、A『其表』で『相替儀』があれば、早々に仰せを承りたい、Bこの度の先手は、『拙者』(=榊原康政)に命じられたため、やがて出陣する予定なの... ...続きを見る

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2019/04/22 11:45
フランス文学探訪80 「チボー家の人々」7 アントワーヌの安楽死・国際機関の必要性  
 アントワーヌは最後まで宗教にすがることはせず、司祭の言葉も受け入れませんでした。体が衰弱し、声も出なくなり、ベッドから立ち上がることもできなくなった時、最後の力を振り絞って自分に安楽死の注射を打ったのです。時に1918年11月。第一次世界大戦終戦間際のことでした。  彼の最後の日記は、自分が死ぬまでの病状をつぶさに語っており、臨床記録として大いに役立ったでしょうし、彼もそのために記録を残したのです。私は正岡子規の「病床六尺」「仰臥漫録」に匹敵するものだと思っています。むろん、一方はフィクシ... ...続きを見る

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2019/04/21 22:45
石田三成の実像2610 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」3 多賀谷三経宛書状3・三経は三成の養子? 
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」(4月16日付の拙ブログ記事で取り上げた書状とは別文書です)について次のように解説されています。  「内容的には、@(6月)22日巳の刻に、多賀谷三経が着いたとのことで、一段と急がれたからと『我等令満足』している、A『其元』では油断なく精を入れ... ...続きを見る

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2019/04/21 11:09
三成の実像2609 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」4
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元連署状が史料として取り上げられていますが、その中の「人数不人之由被申止候間(人数は必要ないと止められた)」という記述について、次のように指摘されています。  「徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家ら三人の... ...続きを見る

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2019/04/20 10:59
フランス文学探訪79 「チボー家の人々」6 アントワーヌの残した日記・チボー家の跡取りへの忠告  
 アントワーヌが最後に残した日記が、小説のラストを飾ることになるのですが、これがなかなか奥深い内容になっています。彼は自分の命が残り少ないことを自覚していますし、医者として、自分の体の状態を誰にもましてよく分かっているのです。彼はそれまで自らを誇り、精力的にばりばりと活動してきただけに、病気の自分との落差を覚えて、最初はショックを受けます。しかし、次第に自分の病状を受け入れ、病気になることによって、今まで見えなかったことが見えてきたと悟るようになったのです。彼は自分の未来をジャックとジェンニーの... ...続きを見る

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2019/04/20 10:35
三成の実像2608 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」3  
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元連署状が史料として取り上げられ、次のように現代語訳されています。  「わざと飛脚をもって申しつかわします。  一、朝鮮との和平交渉については、これまでは加藤清正主導によって行なうようにとの(豊臣秀... ...続きを見る

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2019/04/19 18:35
フランス文学探訪78 「チボー家の人々」5  戦争が変えた兄弟の運命 
 ジャックはジェンニーをパリに残したままスイスに帰りますが、使命感はかえって高まり、戦争が始まってからも、反戦を呼びかけるビラを双方の前線に配るべく、仲間と飛行機に乗り込みます。  しかし、その飛行機が事故を起こして墜落し、操縦士は死に、ジャックは重傷を負います。フランスの兵士たちはジャックをスパイと見なし、彼を担架に乗せて運びますが、敵に追われ、退却を余儀なくされる途中で、足手まといになったジャックはフランス兵士に撃ち殺されてしまいます。なんともやり切れないジャックの最期ですが、戦争とは愚... ...続きを見る

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2019/04/18 10:43
三成の実像2607 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」2
 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということについて、次のように説明されています。  「政権の運営をの運営をたくされた徳川家康にとって最初にとりくむべき課題は、和平交渉のとりまとめと、朝鮮へ送り込んだ人数の引き揚げです。徳川家康は、三人の年寄(前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元)、五人の奉行(浅野長政・増田長盛・長束正家・石田... ...続きを見る

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2019/04/18 10:31
受贈御礼 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」1 三成の実像2606
高橋陽介氏より新著「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」をご恵贈賜わりました。この場を借りてお礼申し上げます。  この書は、「豊臣秀吉の死去は朝鮮在陣の島津義弘らにどのように伝わったのか」の続編であり、前作同様、当時の人々の書状や日記などを時系列に並べて、当時の状況を説明したものです。  高橋氏の新著の最後の「参考文献」の中に、拙ブログの題とアドレスが掲載されているのには恐縮すると共に、光栄に感じました。  まず@「慶長3年9月... ...続きを見る

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2019/04/17 17:28
フランス文学探訪77 「チボー家の人々」4 第一次世界大戦前の反戦運動と頓挫
 この大河小説は「1914年 夏」という部分が突出して異様に長く、小説を前半・後半に分けた場合、その後半の大部分を占めており、いかに作者がこの部分に重きを置いていたかが分かります。この年の夏と言えば、第一次世界大戦が勃発した時であり、この小説はその前後のことを日に追って実に克明に描いています。  一番の驚きは、みんなが戦争に賛成したわけではなく、各国で労働者を中心とした反戦運動が大規模に起こっていたことであり、それはインターナショナルのうねりとなって一時は戦争開始を防げるのではないかという期待... ...続きを見る

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2019/04/17 00:09
石田三成の実像2605 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」2 多賀谷三経宛書状2 秀忠より秀康に出馬要請
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」について次のように解説されています。  「内容的には、@『其元』へ着いたであろうか、諸事油断なく申し付けることが肝要である、A昨日(=6月22日)、江戸(=徳川秀忠)より『其表』の『模様次第』に『出馬』すべき旨を申して来た、B『相替儀』があれば... ...続きを見る

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2019/04/16 10:45
フランス文学探訪76 「チボー家の人々」3  悶え苦しむ父を安楽死させた医師アントワーヌ 
 父親のオスカールはジャックが自殺したと思い込んで体調を崩し、やがて寝たきりの生活になり、余命いくばくもない状態になってきます。その最期の姿はなんともすさまじく、見苦しいものでした。死を前にして、今までの信仰は何の役にも立たず、司祭の慰めの言葉も拒むほどでした。今までの彼の信仰が本物ではなかったという証拠ですが、司祭に模範的な死を迎えた方が後のためになると諭され、ようやく心が収まるのです。地位の高い人ほど死に際は見苦しいと、ある看護士が講演で言っていましたが、オスカールの場合も同様です。  ... ...続きを見る

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2019/04/15 23:58
石田三成の実像2604 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」1 多賀谷三経宛書状 三経の烏帽子親は三成
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられています。  まず「(慶長5年)12月28日付多賀谷三経ヵ宛本多正信書状」について、次のように解説されています。  「内容としては、『来春』は『会津へ可為御動候間』、その時に『以面上萬ゝ可申達候』としてい... ...続きを見る

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2019/04/15 10:48
石田三成の実像2603 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」25
 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Yに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめとして種々の点が指摘されており、その続きで、E点目です。  「喜連川頼氏の書状では、徳川秀忠は『中納言殿』というように殿付であるが、徳川家康は『内府』というように殿付でも様付でもないが、こうした差異をつけた理由はよくわからない」と。  このこ... ...続きを見る

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2019/04/14 12:24
フランス文学探訪75 「チボー家の人々」2 権威主義的な父、再度家出するジャック  
 アントワーヌとジャックの父親であるオスカールは敬虔なカトリック教徒であり、学士院会員を始めとして法学博士、県選出代議士、パリ司教管区カトリック事業委員会名誉総裁など数々の肩書きを持つ名士でした。彼は息子のジャックが家に戻った後も反抗的姿勢が変わらないのを見て取り、自分が経営する少年の更正施設に入れてしまいます。アントワーヌはジャックの様子を見に行きますが、監禁と懲罰によって、精神的な自由を奪われ、無気力に陥っている姿を知って、これではかえって本人のためにならないと、父親に直談判して、自分の責任... ...続きを見る

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2019/04/14 11:38
フランス文学探訪74 「チボー家の人々」1 理性的な医者の兄と、反逆児の弟を軸とした大河小説 
 この三月末で、「ヤフー」のホームページサービス「ジオ・シティーズ」が閉鎖されましたが、そこに掲載していた「フランス文学探訪」の方も拙ブログで順次紹介してゆきたいと思います。 ...続きを見る

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2019/04/13 11:07

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