テーマ:思い出

京都市京セラ美術館の「フランソワ・ポンポン展」2 リニューアルされた京セラ美術館・ 人物彫刻「コゼット」・小学生の…

 リニューアルされた京都市京セラ美術館の中に入るのも初めてでした。エントランスは地下1階になっており、大階段を上って1階の中央ホールに出ます。そこから各会場に行くようになっていますが、「フランソア・ポンポン展」は2階で行われており、らせん階段を上って行きました。同時に「上村松園展」「ドラえもん展」も開かれており、他の展覧会も予定されてい…
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笑福亭仁鶴さんの落語「青菜」に出てくる「アンケラソウ」「腸チビス」「おてしょ」「むらさき」「柳蔭」などの語・仁鶴さ…

 よみうりテレビの番組「平成紅梅亭」で、仁鶴さんの落語「青菜」「不動坊」「つぼ算」が放送され、久しぶりに聴きました。「青菜」は植木屋と旦那、植木屋と女房、植木屋と友達の大工、それぞれのやりとりが面白く、その世界に引き込まれました。植木屋の女房の「おさき」さんが、長屋に帰ってきた植木屋に対して、「このアンケラソウ」「この腸チビス」「この九…
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「探偵ナイトスクープ」 大学の同窓生である貝の研究家の矢野重文さん出演・彼の下宿を訪ねた思い出・「おはよう朝日です…

ABC朝日放送の番組「探偵ナイトスクープ」に、大学の同窓生の矢野重文さんが出演していました(先月再放送されていました)。本人からの依頼でうんこ座りできないので、奥さんやお孫さんから笑われているので、なんとかできるようにしてほしいという内容でした。45年以上もお会いしていませんが、お顔に当時の面影が残っており、名前も出ていたので、すぐにわ…
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追悼・笑福亭仁鶴さん ラジオの深夜番組で三枝さんと共に絶大な人気・最初に覚えた落語は仁鶴さんの「青菜」・絶妙なやり…

 笑福亭仁鶴さんが亡くなられました。謹んでご冥福をお祈り致します。  笑福亭仁鶴さんと桂三枝さんは、高校生の頃、若者たちの間では関西の深夜のラジオ番組などで絶大な人気があり、彼らの軽妙で面白いトークを聴くのが楽しみでした。私が落語を覚えたのは、仁鶴さんの落語のテープやレコードなどによってでした。最初に覚えて演じたのは「青菜」で、大阪府…
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旅行記264 1983年の中国研修旅行17 天壇公園、王府井などを見て、午後の便で帰国・夜に解散・記念誌「朱華」の…

1983年8月10日(中国旅行14日目・最終日)は、午前中に天壇公園、王府井などを見て、昼食を取り、北京空港から午後の便で帰国の途に就きました。 天壇は、明・清の皇帝が天を祭り、五穀の豊穣を祈ったところです。旅行団の最後の全体写真をここで撮りました。  ところで、奈良の菅原遺跡で奈良時代の円形建物跡が発見され、高僧・行基の供…
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旅行記263 1983年の中国研修旅行16 万里の長城、十三陵、定陵などを廻り、夜は北京ダック

1983年8月9日(中国旅行13日目)は、万里の長城、十三陵、定陵、天安門広場などを廻り、夜は北京ダックを食べました。  万里の長城で見学できるところは一部です(われわれが行ったのは八達嶺)が、それでもその壮大さを改めて実感しました。遠くはるかなところまで、延々と長城が続いているのが、目でも確認でき、よくもこれほど大きなものを作ったも…
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旅行記262 1983年の中国研修旅行15 泰山から寝台車で北京へ・午後から頤和園、故宮(紫禁城)、日壇公園などを…

1983年8月8日(中国旅行12日目)、泰山から北京に列車で移動しましたが、泰山のホテルを出発したのは、夜中の1時半でしたから、ホテルで少し仮眠を取った程度でした。列車は寝台車でしたが、よく眠れたかどうかは覚えていません。この日もハードなスケジュールでした。正午に北京駅に着き、昼食を取った後、北京大学、頤和園(いわえん)、故宮(紫禁城…
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旅行記260 1983年の中国研修旅行13  孔子の故郷の曲阜・祀られている孔廟・一族の墓がある孔林・屋敷跡であっ…

  1983年の中国研修旅行10日目、孔子の故郷である曲阜へ行きました。 兗州駅からバスで30分程です。 孔子が祀られている孔廟、孔子や子孫の墓などがある孔林、子孫などがかつて住んでいた屋敷跡である孔府などがあり、全部合わせると広大な敷地です。 屋敷跡がホテルになっていて、そこに泊まりましたが、中庭を囲むように部屋が並んでおり、中庭には…
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大阪探訪64 リーガロイヤルホテル 2006年の大阪府立大手前高校創立120周年記念式典・メインロビーの大絨毯・就…

 ワクチン接種を大阪国際会議場で受けた際、隣のリーガロイヤルホテルのロビーにも少し立ち寄りました。大阪府立大手前高校で勤務していた2006年、創立120周年記念式典が国際会議場で、祝賀会がリーガロイヤルホテルで行われました。記念式典の際の記念演奏会では、大手前卒業生のオーボエ奏者の古部賢一氏の独奏、オーケストラや合唱団とのコラボもあり、…
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大阪探訪61 医学部跡に建つ大阪大学中之島センター・大学生のモニュメント・現役の時、阪大本部まで合格発表を見に行っ…

 2回目ワクチン接種の前に、大阪大学中之島センターへ行きました。目下、改修工事中でした。ここにはかつて大阪大学の医学部がありました。本部もかつては中之島にあり、現役の時、受験した阪大の合格発表は中之島の本部構内でありました。理学部物理学科を受けました(受験会場は豊中市の理学部キャンパスでした)が、肝心の物理の新傾向の問題が全く解けなかっ…
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1964年の東京五輪6 記念切手・夏休みの自由研究も五輪・芸術的な市川崑の記録映画を大臣らが批判し修正

 前回の東京五輪の際は、オリンピックが中学校の夏休みの自由研究の課題にもなりました。自分が何を調べて何を書いたかは覚えていませんが、模造紙に記念切手を貼り付けたことはよく覚えています。この記念切手は、前もって6回にわたって発行されました。5円切手ですが、寄付金が5円付いて10円で販売されました(3枚1組のものは30円、4枚1組のものは4…
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1964年の東京五輪5 男子体操の遠藤幸雄選手は3個の金メダル・流行語「ウルトラC」 体育館でテレビ観戦したマラソ…

 写真は前回の東京五輪の際に、毎日新聞から発行された絵葉書の第五集で、これが最後です。   男子体操もレスリングと同じく5個の金メダルを獲得し、中でも遠藤幸雄選手は、団体、個人総合も含めて3個獲得しています。写真は個人総合で、鉄棒の演技をしている時の遠藤選手です。当時、最高難度の演技はCでしたが、男子日本の体操の演技はそれ以上だという…
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1964年の東京五輪4 依田郁子選手の80メートルハードル走・ヘイズ選手の100メートル走優勝・棒高跳びの9時間の…

 前回の東京五輪の頃は、アマチュア選手の大会でしたが、いつしかプロの選手も参加するようになり、日程も放映権を持つアメリカのテレビ局などの意向で、今の時期に設定されてしまい、今回の大会は酷暑の中でやらざるをえなくなりました。商業主義に毒され、「五輪貴族」という言葉も生まれ、彼らの横暴ぶりが目に余ります。  私は医療逼迫を招き命の危険も伴…
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1964年の東京五輪3 金メダル第1号は重量挙げの三宅選手・レスリングで金メダルを獲得した渡辺選手・体操と同様5個…

  前回の東京五輪の際に発行された絵葉書第三集です。最初は開会式の前に発行され、開会式が始まり、競技が進んでいくたびに発行され、計五回出されました。第三集の表紙は武道館で、東京オリンピックで新しい競技として取り入れられた柔道を行うために作られました。もっとも、この時は柔道は男子だけで、女子柔道がオリンピックの公開競技になったのは、198…
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コロナ禍の中、長すぎた今回の開会式 1964年の東京五輪2 日本選手団の行進、選手宣誓、聖火台への点火、クーベルタ…

 写真は当時の東京五輪の絵葉書第2集です。表紙が代々木選手村、絵葉書は開会式の日本選手団の行進(しんがりで94番目でした)、選手宣誓、聖火台への点火、電光掲示板に映しだされたクーベルタン男爵の言葉です。  今回の、コロナ禍の中での四時間近くのオリンピックの開会式は長すぎたという印象を持ちます。パフォーマンスはもっと短くすべきでしたし…
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1964年の東京五輪1  中学1年当時の自分も異様に興奮・開会式の様子を録音・今回、国立競技場を建て替えたことに疑…

前回の東京五輪は大いに盛り上がって、当時中学1年の私も異様に興奮していましたが、今回は全く違います。緊急事態宣言が出され、コロナの感染が急拡大しこのままでは医療崩壊も招きかねない状況の中で、巨大イベントであるオリンピックだけ特別扱いで行われることに疑問、矛盾を感じていました。実際、恐れていた通りの最悪の状態になりつつあります。開催中止を…
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大阪府立住吉高校国際教養科の専門科目「国際理解」を担当 童話・民話から国民性を探る、「人魚姫」と「リトル・マーメイ…

  大阪府立住吉高校の国際教養科の専門科目で「国際理解」を担当しましたが、これも貴重な経験になりました。国語、社会、英語科の教員が一学期ずつ担当しましたが、教科書もなく、どういう授業をするのかは担当者に任されました。私は各国の文化に対する理解を深めるために、童話や民話に着目し、それぞれどういう特徴や国民性がうかがえるのか、考察しました。…
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大阪府立住吉高校国際教養科設置をめぐって4 2年目の国際教養科案内パンフレット(1990年) 8倍の競争率になった…

 写真は大阪府立住吉高校の国際教養科の2期生を募集した時の案内パンフレットです。2年・3年次のカリキュラムの専門科目の内容が初年度に比べてかなり変更されていますが、1年間、教員間で議論を重ねた結果です。入試方法も大きく変わり、一般入試の前に、一次入試が加わりました。これも府教委の意向で決められたことです。  80名の定員の3割を一次入…
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大阪府立住吉高校国際教養科設置をめぐって(1989年)3 初年度の国際教養科案内パンフレット 未定の部分の多さ

 森友文書改竄問題でもそうですが、省庁では、おかしなこともおかしいと云えない空気があるのではないかと思ってしまいます。  大阪府立住吉高校に国際教養科が設置がされることを校長が突然発表した時(前述したように、府教委出身の校長は赴任する時から、設置することを府教委から言い含められていたようですが、そういうことを教職員には全く明かしません…
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大阪府立住吉高校国際教養科設置をめぐって(1989年)2 設置を一年延期してほしいという「要請書」を府庁に持って行く

 写真は1989年10月に、大阪府立住吉高校の教職員が府庁に持って行った、国際教養科の設置を一年延期してほしいという「要請書」(案)の内容です。これでよいか全体に諮ったので、一部修正されたかもしれません。職員会議の決定事項なので、議長団三名の名前と印鑑が押されています(その部分は省略)。すでに9月18日の職員会議で来年度の開設を延期する…
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赤木ファイルを残したことに感銘 大阪府立住吉高校の国際教養科設置をめぐって(1989年)1 半年前に校長が通告・1…

 森友文書改竄の経緯を詳細に記した赤木俊夫さんの誠実さには改めて感銘します。佐川理財局長の言いなりになる役人が大半だった中で、その理不尽な指示に最後まで抵抗した良識ある人がいたことを忘れてはいけないと思います。それと共に、記録しておく必要性も痛感しました。  森友問題に関しては、3月に赤木さんの妻が立ち上げたプロジェクト「私の夫、赤木…
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旅行記249 1983年の中国研修旅行2 まず上海へ・昭和30年代前半の大阪に似た雰囲気・魯迅の墓・シルク工場

1983年(昭和58年)の中国研修旅行は、まず上海から入りました(大阪空港から日本航空便)が、私が子供の頃の昭和30年代前半の大阪に似た雰囲気がありました。人で溢れ、雑然として、エネルギッシュで陽気な町といった印象でした。暑いので、夜になると外に縁台を出してみんなが涼んでいるのも、懐かしい気がしました。自転車の荷台に扇風機を乗せて持ち帰…
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6月に一度だけあった休日は何の日だったかという村瀬哲史氏のクイズ・ 「結婚の儀」の日の日記の記述

「なにわの地理博士」こと、予備校講師の村瀬哲史氏がラジオ番組「ええなぁ」で、以前、休日に関する問題を出していましたが、その中に6月に一度だけ休日になったことがあったが、それは何の日だったかという問題がありました。私も完全に何の日だったかは忘れていましたが、当時の皇太子と雅子さんの結婚の儀の日だったという答えを聞いて、そうだったと改めて思…
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必修クラブの最後の遺産となった「文芸」クラブの雑誌・一年生6名だけの受講者・卒業する前に生徒作品をまとめて雑誌にし…

 かつて高校には、放課後の部活動とは別に、授業時間内に必修クラブというものが週に1時間だけありました。受講するクラブは生徒が自由に選べましたが、一つのクラブにあまり生徒が集中するといけないので人数調整はありました。 大阪府立住吉高校で「文芸」クラブを担当した時、1年の生徒たちに詩や小説、随筆などを書いてもらい、最後に雑誌にしてま…
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古典文学探訪157 玉上琢彌先生の「源氏物語」の演習・高校の授業で「源氏物語」を取り上げた時に用いた「平安朝の発音…

 高校の国語の免許を取るのに取った国文学の授業で一番印象的だったのは、玉上琢彌先生の「源氏物語」の演習でした。当時は大阪女子大学に勤めておられましたが、京大まで教えに来られていました。先生ご自身が、京大の国文学の出身です。  その演習では、大学院生が前に出て、原文を講読してゆくのですが、90分の時間内にいつも2、3行しか進みませんでし…
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石田三成の実像3053 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」65 太田浩司氏「石田三成の戦い」1 外岡慎一郎氏…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、太田浩司氏の「石田三成の戦い」の中で、三成の挙兵について、次のように記されています。  「秀吉が没してから、豊臣家を無視し独自の政権を確立しようとする家康に不満を抱く三成は、7月初めに佐和山城で、大谷吉継、安国寺恵瓊と会談し、家康打倒の相談を行っている。ここで三人は、西軍挙兵の盟…
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五回生の時に国語の教員免許に必要な単位をまとめて取る・自作短歌の周辺45 教育実習を振り返って詠んだ歌・体験記を短…

 大学には5年いましたが、必要な単位は三回生までにほとんど取り、後は卒業論文を書けば卒業できたものの、卒業後の進路は何も考えていなかったため、もう1年卒業を延ばすことにしました。まわりの友人達もみな同じ考えでしたから、そういう気楽さもありました。そもそも、当時、文学部に入ってくる学生達は就職のことを真剣に考えていない者が多かったように思…
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中高の頃から今に至るまで「ながら族」・小中高の校舎はいずれも建て替わってアルバムと思い出の中だけに

「ながら族」という言葉は死語になりましたが、自分自身は昔から典型的な「ながら族」で、今もその傾向は変わっていません。高校受験の時は、加山雄三さんの曲のテープを聴きながら勉強をしていました。テープと言っても大きなオープンリールで、テープレコーダーも大きく、テレビなどの音を録音していました(マイクは付いていましたが、テレビとレコーダーをつな…
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羽生選手が共鳴した「天と地と」の謙信の生き方・私も25歳までぜんそくを患う・春日山城跡に二度登ろうとしたものの雨で…

フィギュアスケートの世界選手権大会で、羽生選手がフリーの演技で、ぜんそくの症状が出ていたことを自ら語っていました。緊張感もあったと思いますが、その中で大きく崩れることなく、銅メダルに輝いたのはさすがです。本人はさぞかし悔しかったでしょうが。  私は小学4年生の時に小児ぜんそくを発症し、高校生の時まで季節の変わり目ごとに発作が出て、その…
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大阪探訪57 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」、旧真田山陸軍墓地を見た後、歩いて大阪カテドラル聖マリア大聖堂まで生徒たちを案内しました。この大聖堂は、秀吉時代、大坂の細川屋敷があったところで、関ヶ原の戦いの二ヶ月前、細川ガラシ…
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