テーマ:歴史

大阪探訪60 中津藩蔵屋敷跡碑・福沢諭吉生誕地碑・「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」碑 その言葉の意味

 朝日放送のすぐ東に、中津藩蔵屋敷跡碑と福沢諭吉生誕地碑、及び「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」(『学問ノススメ』)の碑が建っています。コロナワクチン接種の前に、ここにも久しぶりに立ち寄りました。堂島川に面しており、江戸時代、この近辺は各藩の蔵屋敷がずらりと建ち並んでいました。堂島には米相場がたち、当時としては画期的な米の先物…
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友人の新著「信心の再発見」1 オウム真理教事件と「歎異抄」 京都探訪334 東本願寺の「涉成園」2 慶喜の癒やしの…

 N君の新著「信心の再発見」(幻冬舎ルネッサンス新書)の中で、オウム真理教の事件に関して言及されていますが、「歎異抄」の次のような一節が紹介されています。  親鸞が弟子の唯円に「わたしの言うことを信じて、何でも従うか?」と問うと、「はい」と答えたところ、親鸞は「往生のために人千人を殺してみよ」と言います。唯円は「一人も殺せません」と答…
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大手前高校の演劇鑑賞にわらび座の「アテルイ-北の燿星」(2011年)歪曲されてきた東北の英雄の復権・迫力も見応えも…

 東北大震災が起こった年の10月に、大手前高校の文化行事として、秋田県仙北市に拠点を置くわらび座のミュージカルの演劇「アテルイ-北の燿星」を門真市民文化会館ルミエールホールで鑑賞しました。当時、図書部長としてこの行事に関わったのですが、保護者向けの案内に、演劇の内容及び鑑賞する意義について、簡単に次のように記しました。  「平安時代、…
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大阪探訪55 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」を少し登ったところにある、旧真田山陸軍墓地にも生徒たちを案内しました。明治時代以後の、兵士たちの墓が5000余り並んでいます。しかも、亡くなった時の階級に応じて、墓の場所が違ってい…
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大阪探訪48 番組「ニッポン不滅の名城 『大坂城』」2 徳川時代の大坂城は西国支配の拠点・内堀の一部を埋め立て本丸…

 NHKの番組「ニッポン不滅の名城 『大阪城』」で、徳川秀忠が秀吉の大坂城を埋め立てて、新たな大坂城を作った理由について、秀吉の痕跡を消し去るためだけではなく、大坂城を西国支配の軍事拠点とするためでもあり、さらには秀忠が隠居した後、大坂城に住むことも考えていたと城郭考古学者の千田嘉博氏が説明されていました。それを示す小堀遠州の書状が最近…
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京都探訪330 隠退していた若冲が、錦市場の再開に尽力 錦市場の若冲の絵のシャッターラッピング

  若冲が錦市場の青物問屋の家督を弟に譲って画業に専念するようになったのは40歳の時ですが、石峰寺の五百羅漢像の制作を始めたのは61歳の頃だと言われています。石峰寺に隠棲したのは76歳の時、亡くなったのは85歳でした。  石峰寺の境内には五百羅漢だけでなく、釈迦の誕生仏、托鉢修業、説教場、賽の河原を表した石像など広範囲にわたって置かれ…
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京都探訪328 出町妙音堂(弁財天)へもお参り・後伏見天皇の女御となった西園寺寧子の念持仏が本尊・大光明寺を創建・…

 幸神社にお参りした後、出町橋のそばにある出町妙音堂(弁財天)へもお参りしました。このお堂の本尊は、青龍妙音弁財天画像ですが、鎌倉時代、西園寺寧子が後伏見天皇の女御として入宮する時、念持仏として持参し、伏見離宮(伏見殿) に祀られました。江戸時代の享保年間に、伏見殿が出町北鴨口に移転した際、本尊も移りました。明治時代になって、本尊は…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策8・旧制大阪高校跡・よく通っていた店は見当たらず・「雲海」でランチ・北畠公…

  晴明丘公園を東に歩いて行くと、あべの筋に突き当たりますが、そのあたりは大正時代に創立された旧制大阪高等学校があったところで、現在、跡碑が建っています。この近辺、今はスーパーやマンションが建っており、当時と雰囲気は変わっていました。旧制大阪高等学校は、後に大阪大学に包括されました。   このあたりにあった飲食店で、住吉高校勤務当時は…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策7 北畠顕家と北畠親房が祀られている阿部野神社・同人誌発行のための初会合を…

 阿倍野区北畠の地名は、南北朝時代に南朝方として活躍し、若くして戦死した北畠顕家にちなみます。あべの筋沿いにある北畠公園に顕家の供養塔があり、住吉高校の西にある阿部野神社に、北畠顕家とその父親の北畠親房(「神皇正統記」を書いたことで有名です)が祭神として祀られています。住吉高校に勤めていた当時は、阿部野神社にお参りしたことはありませんが…
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奈良探訪 奈良時代の元興寺は今の十倍以上の規模・伽藍は一直線に配置・境内の「浮図田」

奈良町にある元興寺を、昼食後訪ねました。拝観するのは二十数年ぶりのことで、世界遺産になってから初めてのことです。元興寺の前身は、飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)で、平城京遷都の時に、この地に移ってきて、名前も元興寺となりました。もっとも、当時の寺の敷地は、今の十倍以上ありましたが、現在、大半がほとんど奈良町の町並みに変わっています。   …
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約5年ぶりの大阪府立大手前高校訪問7 昭憲皇太后(明治天皇の皇后) 行啓記念碑・大阪府高等女学校時代に訪問・伏見の…

 大阪府立大手前高校が伝統校であることを物語るものとして、校内に建っている昭憲皇太后行啓記念碑があります。昭憲皇太后は、明治天皇の皇后であり、一条家の出身で、名前は勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)と改名しました。皇后になったのは、明治元年のことであり、当時19歳でした。  昭憲皇太后が訪れたのは、大手前高校が大阪府高等女学校…
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赤穂市立歴史博物館で展示されている大石内蔵助の書状・介錯した刀・番組「偉人たちの健康診断・“忠臣蔵”」浪士たちの健…

 写真は2年前に赤穂の大石神社で撮ったものです。  若い時から「時代劇」と云えば「忠臣蔵」が一番のお気に入りだったのですが、娘の誕生日が、赤穂浪士の討ち入りの日なのも何かの縁かと思っています。むろん、旧暦と新暦とは違いますが。主君のかたき討ち、忠義などというのは封建時代の産物ですが、苦難の末に本懐を遂げるというところに、ぐっと胸に迫る…
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旅行記148 壱岐対馬を経て韓国へ7 原の辻一支国王都復元公園・一支国博物館・月讀神社・少弐公園

  4月28日、壱岐の勝本城跡を訪ねた後、原の辻にある一支国(いきこく)王都復元公園へ行きました。「一支国」は、「魏志倭人伝」に登場しており、その王都のさまざまな建物や施設が大規模な敷地に復元されています。まずすぐそばにある「原の辻ガイダンス」の建物の展示室へ行き(ここは無料)、原の辻遺跡の発掘調査や整備の記録についての展示を見ました。…
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旅行記93  姫路・赤穂旅行7「忠臣蔵」4 赤穂城跡2 枡形石垣・討ち入り決定の円山会議

  写真は赤穂城の大手門を中側から2月12日に撮ったものです。  大手門をくぐったところに、枡形(ますがた)の石垣がありますが、こういう形になっているのは、攻め込む敵をこの狭い場所に閉じ込めて逆に攻撃したり、味方の兵をここで待機させて外に打ち出すためでした。  そこを通ると、目の前に番所跡があり、さらに進むと、大石邸長屋門がありま…
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三成の実像1861 中野氏「石田三成伝」18 九州攻めの際の役割8 義久歓待・秀吉に近侍

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「天正15年(1587)6月25日には、三成は細川幽斎とともに、上洛のため博多まで北上してきた島津義久を訪ね」、「ほどなく義久をともなって西上し、6月29日に下関を経て、7月10日に堺へ到着した」と記されています。  下関に来た時のことについて、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社…
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旅行記92  姫路・赤穂旅行6 「忠臣蔵」3 赤穂城跡1 大手隅櫓・大手門 刃傷事件の原因

 写真は赤穂城跡の大手隅櫓を12日に撮ったものです。奥に見えているのが大手門であり、それに架かる橋です。  赤穂めぐりは、昼食後に、赤穂城跡に行きました。歩いて10分足らずでたどり着きました。大手門のところで、義士の姿をしたポランティアの人々にわれわれ一行の全体写真を撮ってもらいました。櫓や門は再現されたものですが、「忠臣蔵」の場…
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旅行記91  姫路・赤穂旅行5 「忠臣蔵」2 浅野家の菩提寺の花岳寺と泉岳寺 上杉家の追手を待つ

 写真は赤穂の花岳寺にある二代目大石なごりの松を12日に撮ったものです。  赤穂めぐりは、息継ぎ井戸を見た後、花岳寺通り商店街を通って、そこから数分の距離にある、浅野家の菩提寺である花岳寺を訪ねました。山門は赤穂城の門だと云われています。境内には上記の写真の二代目の大石なごりの松が建っていました。初代の大石なごりの松の切株は別のとこ…
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京都探訪257 旅行記37天橋立旅行7 大頂寺の綱吉直筆の軸・綱吉の狂気・徳川家の位牌・風神雷神図

 写真は大頂寺の寺宝として展示されていた徳川五代将軍綱吉の直筆の軸を8月27日に撮ったものです。「うやまはざることなかれ」と読むと、そばにある説明パネルに記されています。ちなみに、「毋」は「母」ではなく、「なかれ」と読み、「莫」「無」「勿」という語と同様、禁止の意味を表す否定の助辞です。  説明パネルには次のようなことも記されています…
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京都探訪256 旅行記36  天橋立旅行6 大頂寺からの眺望・本庄家・桂昌院の御霊屋

  写真は宮津の大頂寺の本堂から天橋立方面を8月27日に撮ったものです。  2泊3日の天橋立旅行の最終日、ホテルの送迎バスで宮津駅に送ってもらった後、特急「はしだて」の乗車時刻まで3時間程あったので、荷物をコインロッカーに預け、家族で宮津市内を散策しましたが、駅から西に進んで宮津城の復元城壁、太鼓門、カトリック宮津教会、和貴宮神社な…
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大阪探訪87 大坂夏の陣400年19 「真田幸村公戦没400年慰霊祭」2 家康狙撃の銃と澤田平氏

 旧暦の5月8日が豊臣秀頼、淀殿が自害した日と言われていますが、7日説もあることが、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)に記されており、確かなことはわからないと指摘されています。いずれにせよ、豊臣家滅亡から400年経ったことに改めて感慨を覚えます。   さて、写真は「真田幸村公戦没400年慰霊祭」の際に展示されていた、「真田幸村公 …
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大阪探訪86 大坂夏の陣400年18 「真田幸村公戦没400年慰霊祭」1 

旧暦の5月7日は真田幸村(信繁)が大坂夏の陣で戦死した日です。一昨日、戦死した場所である安居神社で行われた「真田幸村公戦没400年慰霊祭」に行って来ました。  写真はその「真田幸村公戦没400年慰霊祭」の様子を撮ったものです。参加者が多くてスペースがなかったので、仕方なく裏側に回りました。真ん中に写っているのが宮司さんです。写真に向…
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大阪探訪85 夏の陣400年17 大坂城跡発掘調査7 福田千鶴氏「豊臣秀頼」3 茶々の名護屋での懐妊

 写真は大坂城の発掘調査で出土した石材を、現地説明会が行われた4月18日に撮ったものです。地上に展示されていましたが、写真に向かって左側の石材に墨書符合があるのがわかりますし、右側の石材には矢穴列痕があるのが見えます。  矢穴列痕がある石材について、公益財団法人大阪府文化財センター発行の小冊子「大坂城跡の発掘調査」には、「0.8~1.…
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大阪探訪84大坂夏の陣400年16 大坂城跡発掘調査6 福田千鶴氏「豊臣秀頼」2 秀頼の最初の挑戦状

 写真は大坂城跡の発掘調査で出土した国産の陶磁器類を4月18日の現地説明会の際に撮ったものです。大坂夏の陣で豊臣期大坂城が落城した後、徳川期大坂城を築城する際の盛土の中から出土したものです。丹波焼、備前焼、唐津焼、美濃焼などさまざまな陶器が出土しています。  公益財団法人大阪府文化財センター発行の小冊子「大坂城跡の発掘調査」には、「徳…
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石田三成の実像1399 大坂城跡の発掘調査5 福田千鶴氏「豊臣秀頼」1 秀頼四人衆のうち三人は三成派

 写真は大坂城跡の発掘調査で出土した下駄(向かって右側)、羽子板状木製品(向かって左側)などを4月18日の現地説明会の折に撮ったものです。前述したように、これらのものは大坂冬の陣の後に堀を埋め立てた土砂の中から出土したものです。豊臣時代に使われていたものだと思うと、感慨を覚えると共に、滅んだ者たちへの哀惜の念が感じられてなりませんでし…
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大河ドラマ探訪330「花燃ゆ」21 杉家旧宅・低視聴率は俳優のせいではない・松陰と玄瑞の再会

 写真は松陰神社にある杉家旧宅を3月19日に撮ったものです。「花燃ゆ」第16回の「花燃ゆ紀行」でもこの家が取り上げられていました。  大河ドラマの視聴率の低さを、主演の井上真央さんのせいにする声が聞かれますが、俳優のせいにするのは酷というものです。井上真央さんはよくやっていると思いますし、それは同じく低視聴率だった「平清盛」でも松山ケ…
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大阪探訪83 大坂夏の陣400年15 大坂城跡の発掘調査4 堀や盛土からの豊臣期の出土品

 写真は大坂城の堀の遺構から出土した箸、ヘラ状木製品、徳川期の盛土から出土した金箔を貼った瓦を3月18日に撮ったものです。さまざまな出土品が、二ヶ所にわたって並べられていました。  公益財団法人大阪府文化財センター発行の小冊子「大坂城跡の発掘調査」には、「堀からは陶磁器以外に、箸や下駄などの日常使いの品から建築部材などの多様な木製品…
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大阪探訪82 大坂夏の陣400年14 大坂城跡の発掘調査3 すべての堀の埋め立ては家康の謀略か否か

 写真は今回発見された大坂城の堀の遺構のうち、落ち込み、廃棄された石材、徳川期の石材、豊臣期の石材などを4月18日に撮ったものです。「落ち込み」とは、小冊子「大坂城跡の発掘調査」によれば、「徳川大坂城築城に伴うと考えられる大規模な造成工事の跡」の「深い部分」です。この「落ち込みからは、大きな石材が40点近く見つかり」、「豊臣期の石材は…
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大阪探訪81 大坂夏の陣400年13 大坂城跡の発掘調査2 大手口の西側の堀・斜面と堀障子による防御

 写真は今回新たに発見された大坂城の堀の発掘現場を4月19日に撮ったものです。昨日の拙ブログで触れたように、この鉄骨の下に堀の遺構があります。発掘現場は府庁舎などのビル群に囲まれた地域であり、この発掘現場も調査が済めば埋め戻されて、施設が建てられます。  現地説明会の折に配布された公益財団法人大阪府文化財センター発行の小冊子「大坂城跡…
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大阪探訪80大坂夏の陣400年12 大坂城跡の発掘調査1 記事「冬の陣後に消えた堀 大阪城西で出土」

  写真は今回発見された大坂城の堀を昨日撮ったものです。現地説明会があったので、行ってきました。場所は大阪府庁のすぐ南側で、重粒子線がん治療施設整備運営事業に伴う発掘調査で発見されました。  今回の発見は、16日付の朝日新聞朝刊に掲載された「冬の陣後に消えた堀 大阪城西で出土」と題する記事で知りました。  その記事には、「約400年…
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大阪探訪78 大坂夏の陣400年10 志紀長吉神社大鳥居 新聞記事「幸村 大阪人に愛されて」 結婚1

 写真は志紀長吉神社の大鳥居を撮ったものです。真田幸村休憩地碑のすぐ北にあり、さらにその北には幸村が大坂夏の陣の際、軍旗や刀を奉納した志紀長吉神社(写真のずっと奥)があります。いずれも最寄り駅は地下鉄谷町線長原駅から西に歩いて5分程のところにあります。  朝日新聞夕刊に「探訪夢のまた夢 豊臣滅亡400年」と題する記事が連載されています…
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