テーマ:大河ドラマ探訪

大河ドラマ探訪149 「八重の桜」4 男装写真が示す「戦う女」(中村彰彦氏の指摘)・松陰の密航事件

 「歴史街道 2月号」の中で、中村彰彦氏は「八重が実践を知る『戦う女』であったかを如実に示す」ものとして、「八重が明治44年に、男装して腰に刀を差し、銃を持って撮影した写真」を取り上げておられます。八重が「刀の柄をかなり前に出して」いるのは、「帯から鍔までにゆとりがなければ、すぐに鯉口を切る(刀を抜くために鍔を左手親指で押し出す)ことが…
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大河ドラマ探訪148 「八重の桜」3 金戒光明寺「新島八重の掛け軸」・兄から砲術の教えを受ける

 今日の朝日新聞朝刊第二京都版の「古都ナビ 宝物編」に、「金戒光明寺『新島八重の掛け軸』」が取り上げられています。「1928年(昭和3年)に金戒光明寺を訪れた新島八重が書いた掛け軸」であり、「明日能夜盤 何国之誰可 な可むら舞 な連し御城尓 残須月可計」(明日の夜わ いづくの誰かながむらむ なれし御城に 残す月かげ)という和歌が書かれ、…
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大河ドラマ探訪147 「八重の桜」2 山本覚馬が佐久間象山に初めて学んだのは嘉永3年?6年?・御家訓

 八重の兄の山本覚馬も吉田松陰と同様、佐久間象山に学びますが、大河ドラマではそれをペリー来航した後のこと(嘉永6年)として描いていました。この点について、「歴史街道」の秋月達郎氏の「『寒夜に霜を聞くごとく』少年に伝えた、覚馬仕込みの鉄砲の冴え」の後に付いている八重の年表によれば、それより3年前の嘉永3年(1850年)に「覚馬、江戸に出て…
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大河ドラマ探訪146 「八重の桜」1 「歴史秘話ヒストリア」「歴史街道」スペンサー銃・吉田松陰年譜 

 大河ドラマ「八重の桜」の第1回「ならぬことはならぬ」の放送に続いて、「歴史秘話ヒストリア」で「『ハンサムウーマン』がゆく 新島八重 不屈の会津魂」と題する番組が放送され、八重の生涯がコンパクトにまとめられていました。「ハンサムウーマン」というのは、新島襄がアメリカの友人(ハーディー夫人)に書き送った手紙の中で、妻の八重について「彼女は…
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大河ドラマ探訪145「平清盛」35 最終回と総集編 元木泰雄氏「平清盛と後白河院」あとがき・コメント

 大河ドラマ「平清盛」の総集編が2日、3日に放送されていましたが、3日の方を途中から最後まで一応見ました。清盛の死後のことがどこまで描かれているのか気になったということもありますが、その点に関してはいきなり壇ノ浦の戦いでの時子と安徳天皇の入水の場面があっただけ(平家の滅亡を知った頼朝が「清盛なくして武士の世は来なかった」と言う場面を入れ…
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大河ドラマ探訪144 「平清盛」34 園城寺・南都焼き討ち 後白河院の院政復活

 大河ドラマ「平清盛」第47回「宿命の敗北」の中に、平氏が富士川合戦に出陣する際、大将軍維盛と侍大将伊藤忠清が対立する場面がありました。ドラマではこの日は「十死一生日」だから出陣を避けるべきだと主張したのに対して、維盛がすでに福原を出陣しているのだから問題はないと言い返していました。  この件について、元木泰雄氏の「平清盛と後白河院」…
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大河ドラマ探訪143 「平清盛」33 川口素生氏による富士川合戦の真実・元木泰雄氏による還都の理由

 ここ数ヶ月間、大河ドラマ「平清盛」については記していませんでしたが、後半は生で見ることが少なくなって、録画したものを後からかなり遅れて見ることが多くなり、場合によっては、一ヶ月分ほどほとめて見ることさえありました。もう一つ見る気になれなかったというのが実際のところです。  第47回「宿命の敗北」及び第48回「幻の都」では、富士川の…
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大河ドラマ探訪142 「平清盛」32 「法住寺」・ 清盛の前に突然現れる祇園女御=乙前の不自然さ

乙法  写真は法住寺を撮ったものです。これも竜宮門の写真と同様、7月27日の夕方に撮ったもので、門はすでに閉まっていました。  後白河院の法住寺殿がいかに広大なものであったかについては、岩田慎平氏の「平清盛」の中に載っている、山田邦和氏・山田ちさ子氏作図・野口実氏加筆の「六波羅・法住寺殿復元図」を見れば、よくわかります。平家の拠点であ…
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大河ドラマ探訪141 「平清盛」31 後白河院政の中心となった「法住寺殿」・平滋子の巻き髪? 

 写真は法住寺の竜宮門を撮ったものです。門の脇に「法住寺殿跡」の碑、門前に「旧御陵正門」の碑が建っています。法住寺殿は後白河院政の中心となったところです  昨日の夕方、ぶらりと京阪七条に行き、かつて「法住寺殿」があった一帯、合わせて三成や豊臣家関連でそれより北の豊国神社、方広寺の梵鐘、方広寺大仏殿跡緑地公園、耳塚などを回ってきました。…
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大河ドラマ探訪140 「平清盛」30 源義朝の最期・頼朝の命が助かったのは?

 大河ドラマ「平清盛」第28回「友の子、友の妻」は、源義朝の最期、及び平治の乱の関係者の処分などの話が中心でした。  義朝が戦いに敗れて逃げる途中、頼朝がはぐれたというのは事実ですが、「平治物語」では2度はぐれたことになっています。その「平治物語」では、逃避行の大変さを示すものとして、吹雪や降り積もった雪が出ていますが、大河ドラマでも…
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大河ドラマ探訪139 「平清盛」29 平清盛と源義朝の一騎打ち?義朝たちを内裏からおびき出す策

 大河ドラマ「平清盛」第27回「宿命の対決」では、二条天皇と後白河院を清盛方に奪われた義朝が、信頼のところへ来て「日本一の不覚人」と言って殴る場面がありましたが、「愚管抄」で義朝が確かにそういう言い方をしているものの、この時点で目上の者を殴るというのは行き過ぎです。もっとも、「平治物語」では、戦いに敗れて逃げる途中の義朝が、信頼にそうい…
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大河ドラマ探訪138 「平清盛」28 信頼に対する清盛の恭順・反信頼にまず動いたのは内大臣藤原公教

公 大河ドラマ「平清盛」では、清盛の家臣の家貞が、信頼に恭順の意を示す名簿(みょうぶ)を出していましたが、この清盛の行動について、武光誠氏の「平清盛 天皇に翻弄された平氏一族」には、「敵を油断させるためであった」が、清盛が「貴族つまり『軍事貴族』であってサムライではないことがわかる」と書かれています。「武士道では正直がもっとも重んじられ…
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大河ドラマ探訪137 「平清盛」27 信西が清盛を頼った形跡はうかがえず・右兵衛権佐になった頼朝

 大河ドラマ「平清盛」では、信西が清盛の助けを待っていたというふうに描かれていましたが、上杉和彦氏の「日本史リブレット人 平清盛」では、「この事件の前後の状況を見るかぎり、信西は清盛を頼った形跡はうかがえない」、信西は「清盛と行動をともにする姿勢をみせぬまま、文字通り孤立無援の状態のまま滅び去った」と書かれています。  清盛自身は熊野…
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大河ドラマ探訪136 「平清盛」26 信頼・義朝によるクーデターは小規模・清盛の協力に期待・信西の死

 大河ドラマ「平清盛」の「平治の乱」では信頼・義朝対信西・清盛(清盛は信西寄り)という構図が強調されていましたが、実際は清盛は最初、中立という立場でした。ドラマでは源氏と平氏との対立を際立だたせようと、義朝の長男の義平が熊野参詣から戻る清盛を阿倍野で襲う計画を口にしていましたが、これは「平治物語」に基づく描き方です。  この件について…
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大河ドラマ探訪135 「平清盛」25 信頼の能力は信西も評価していた・清盛を敵としていない反信西側

 大河ドラマ「平清盛」では、信頼が近衛大将の位を望んだのに、信西がこれを拒んだことから、信頼が信西を恨むようになったという描き方がされていました。それは「平治物語」に基づくものですが、元木泰雄氏の「平清盛と後白河院」の中で、「大将昇進の家系が限定されていたこと、当時、大臣・大将に欠員や辞任の可能性がないこと等から事実と考えにくい」と指…
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大河ドラマ探訪134 「平清盛」24 清盛は中立を保っていた・信西による保元新制という法令発布 

 大河ドラマ「平清盛」では、保元の乱後清盛が信西寄りであり、信西の政治改革に同調するような描き方がされていましたが、実際の清盛たち平氏一門はいずれの勢力にも接近せず、中立を保っていたことが岩田慎平氏の「乱世に挑戦した男 平清盛」に書かれています。「平治の乱で直接衝突する信西と信頼のそれぞれの息子たち(成憲《しげのり》・信親《のぶちか》)…
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大河ドラマ探訪133 「平清盛」23 義朝に対する恩賞は手厚かったという、大河ドラマとは違う見解

 大河ドラマ「平清盛」第24回「清盛の大一番」で、保元の乱の後、源義朝が清盛と比べて恩賞が少ないと信西に嘆願する場面がありました。最初は信西に会ってももらえず、次に会った時に、義朝は清盛と同等の国(平清盛は播磨守に任命されました)と願い出ますが、信西はそれを無視して取り合わず、義朝が不満を募らせていました。しかし、こういう義朝が恩賞に不…
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大河ドラマ探訪132 「平清盛」22 京都探訪78 高松神明神社の地蔵尊・ 義朝が奮戦した理由

 写真は高松神明神社にある地蔵尊をこの6日に撮ったものです。この地蔵尊の案内書が掲示されていましたが、寛政6年(1794年)、紀州九度山の伽羅陀山の真田庵より拝領してきたこと、智将として有名な真田幸村の念持仏であり、「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰されていること、正面の台石をさすり子達の頭をなでると知恵を授かる御徳があることなどが記され…
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大河ドラマ探訪131「平清盛」21 京都探訪77 高松神明神社・池禅尼と美福門院が清盛の動向を決定

 写真は保元の乱の際、平清盛や源義朝たち後白河帝側が集まった高松殿(後白河帝が即位した場所)の跡に建つ高松神明神社をこの6日に撮ったものです。「此付近 高松殿址」の碑も傍らに建っています。  この日は地下鉄烏丸御池町で下車し、まず高松神明神社にお参りし、信長が建造した二条御新造の跡碑、京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)を見、天性…
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大河ドラマ探訪130 「平清盛」20 平氏を滅ぼさないために忠正が崇徳側につく? 

 大河ドラマ「平清盛」では、保元の乱の際、清盛の叔父の忠正が崇徳上皇側についたのは、清盛の意に反したからではなく、頼盛が清盛に反旗を翻して崇徳側につくのをやめさせようとして、自分がその役を進んで買って出るという流れになっていました。ドラマではもともと忠正は清盛には「もののけ」の血が流れており、平氏の災いのもとだとして、清盛を嫌うという設…
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大河ドラマ探訪129 京都探訪79 「平清盛」19 待賢門院と「法金剛院」・崇徳不倫の子否定論

 写真は満開の法金剛院のしだれ桜を4月13日に撮ったものです。待賢門院桜と呼ばれていますが、法金剛院は待賢門院が復興(双丘寺《ならびのおかでら》・天安寺と推移)した寺であり、大河ドラマの第12回「清盛紀行」でも紹介されていました。私が法金剛院を訪ねるのは2度目ですが、最初は十数年前のことであり、桜の季節は過ぎていましたから、初めて法金剛…
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大河ドラマ探訪128 京都探訪77 「平清盛」18 祇園女御供養塔・ドラマ上では祇園女御=乙前 

 写真は祇園にある祇園女御供養塔をこの10日に撮ったものです。この塚のそばに祇園堂(祇園女御廟)が建っており、中に入りましたが、係員による祇園女御についての説明があり、わざわざ線香をいただきましたので火を付けお参りしました。  この時、祇園堂のことを説明した小冊子と大河ドラマ「平清盛」の人物関係図の小冊子も合わせて頂戴しましたが、大河…
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大河ドラマ探訪127  「平清盛」17 朝日新聞夕刊の記事「大河『平清盛』低迷のワケ」2

 朝日新聞夕刊の記事「大河『平清盛』低迷のワケ」では、、「時代になじみがない」というNHKの会長の言葉も載っていましたし、「序盤の展開が複雑で人間関係も入り組んでおり、武士の勇ましいサクセスストーリーを期待した視聴者は『違うじゃないか』と思ったのかもしれない」というチーフプロデューサーの言葉も出ていました。むろん、これらの言葉が彼らの真…
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大河ドラマ探訪126  「平清盛」16 朝日新聞夕刊の記事「大河『平清盛』低迷のワケ」

 4月21日の朝日新聞夕刊に「大河『平清盛』低迷のワケ」と題する記事が載っていましたが、その記事の中に、コメントした人の話の内容が、記者の都合のよいように書き換えられており、問題となりました。しかし、記事が訂正された形跡はいまだになく、ネット新聞にもそのままの形で出ています。  その記事で視聴率低迷の理由の一つとして指摘されていたのが…
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大河ドラマ探訪125 石田三成の実像794 「江」周辺 桐野作人氏「江の生涯を歩く」 大津城跡

  写真は大津城跡の碑を撮ったものです。18日に園城寺(三井寺)を拝観した後、歩いて浜大津に戻った時に寄りました。京阪電車浜大津駅の近くに碑が建っているということは知っていたのですが、どこにあるかすぐには分かりませんでした。周囲をうろうろした末、歩道橋の下にあるのに気づきました。もっとも、うろうろしていたところが当時、本丸があったあたり…
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大河ドラマ探訪124  「平清盛」15 第11回「もののけの涙」 西行が出家した時の歌・明子の死 

大河ドラマ「平清盛」ではこれからも、「嵐の中の一門」で見られたように、西行を清盛と絡ませてくるような展開になるものと思われます。  その西行の出家についてですが、第11回「もののけの涙」では、清盛が崇徳帝に西行の出家した時の和歌を伝えるという方法が取られていましたが、その歌は「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなり…
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大河ドラマ探訪123 「平清盛」14 第15回「嵐の中の一門」 強引に「血曼荼羅」の逸話に持ってゆく

 大河ドラマ「平清盛」第15回「嵐の中の一門」は、家盛の死による平氏一族の混乱ぶりが描かれていましたが、家盛の生母の宗子が清盛に家盛の遺体に「触るでない」と言ったり、清盛の叔父の忠正が清盛を突き飛ばして「災いをおまえがもたらした。おまえが代わりに死ねばよかった」と怒鳴ったりするという修羅場を用意していました。ドラマに無理に劇的な対立を持…
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大河ドラマ探訪122 「平清盛」13 第14回「家盛決起」2 義朝と由良御前の結婚の意図

 大河ドラマ「平清盛」第14回「家盛決起」で描かれていた藤原頼長と平家盛の男色関係は創作でしょうが、頼長が源為義の嫡子である義賢と男色関係にあり、また為義・義賢が頼長に厚遇されていたことが野口実氏の「武門源氏の血脈」に書かれています。  「淀川河口に位置する摂津国大物浦は、いわば畿内全体の外港としての機能を担う港湾であったが、為義はこ…
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大河ドラマ探訪121 「平清盛」12 第14回「家盛決起」1 清盛を脅かす存在ともなりえた人物   

 大河ドラマ「平清盛」第14回「家盛決起」は、清盛の弟の家盛が忠盛の後継者の地位を確立しようという動きに出たことを中心として描かれていましたが、やはり相変わらずフィクションの場面が目立ちました。  もっとも、祇園闘乱事件が清盛の前途に大きな影響を与えたことについては清盛関連本の諸書に書かれています。岩田慎平氏の「乱世に挑戦した男 平清…
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大河ドラマ探訪120 「平清盛」11 第10回「義清散る」 不自然な西行出家の経緯・清盛との絡ませ方

 大河ドラマ「平清盛」の第10回「義清散る」に回はさかのぼりますが、西行(佐藤義清)の出家の描き方も変であり、不自然な出家の経緯でしたし、また強引に清盛と絡ませていました。そもそも、清盛と西行が友達というドラマでの設定自体、無理があるということが、岩田慎平氏の「乱世に挑戦した男 平清盛」を読んでわかりました。  「清盛と西行は同年齢と…
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