テーマ:大河ドラマ探訪

石田三成の実像2676  大河ドラマ「葵 徳川三代」5 五奉行の剃髪・三成の失脚後

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、徳川家康の婚姻問題の決着として、三成ら五奉行は剃髪して謹慎、家康は誓紙を五大老に提出したというふうに描かれていました。もっとも、五奉行の剃髪については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、謹慎という意味合いではなく、次のような見解が示されています。  「秀吉の遺言に従ったものとされるが、こう…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2670  大河ドラマ「葵 徳川三代」4 家康の薩摩邸訪問を糾弾?家康を討つ?

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、博多から伏見城に戻ってきた三成は、自分が博多にいた間に、家康が薩摩屋敷を訪れたことで島津義弘を詰問し、家康との間に約束事がないことを誓紙で明らかにするように要求する場面がありました。ドラマでは、この後、家康が義弘を詰問し、「三成に誓紙を出すなら、構えて、わしにも出してもらうぞ」と要求しています。  こ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2665 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」32

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑩「慶長3年11月18日、小西行長は順天を引き取った」の中で、その前後の状況について、次のように説明されています。  「11月12日付の注進状をうけとった寺沢正成は、釜山浦の守備を毛利吉成に命じ、南海へ向かいました。1…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2663 大河ドラマ「葵 徳川三代」2 従来通りの対立の構図

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、初回拡大版で、関ヶ原の戦いから三成の処刑まで一挙に放送され、第二回以降、秀吉が死んだ時に遡って、その後の状況を丁寧に描いていくという手法が採られていました。  北政所(高台院)=家康VS淀殿=三成という従来通りの構図でしたが、それは司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の見方の踏襲と云えます。二年前に上映された…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像2660 大河ドラマ「葵 徳川三代」1 敗者三成にスポット

 岡田准一さん主演の映画「関ヶ原」がテレビで放送されました。この映画については、映画館で見た後、拙ブログで9回にわたって取り上げました(2017年10月)。  またBSプレミアムでは、2000年に放送された大河ドラマ「葵 徳川三代」が再放送されています。まず関ヶ原の戦いからドラマは始まりますが、大々的にロケが敢行され、合戦絵巻が再現さ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪471 「おんな城主 直虎」1 迫力不足・男だったとする新史料

 大河ドラマ「おんな城主 直虎」は毎回見ていますが、もう一つ迫力に欠けているのが難点ではないでしょうか。井伊家の話が中心ですから、壮大さがないのは致し方ないとは云え、最初の山場であるはずの桶狭間の戦いでも、歴史的な事件であるのにかかわらず、ダイナミックなところがありませんでしたし、今川義元が殺される場面もパスされましたし、信長も登場せず…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旅行記90 姫路・赤穂旅行4 「忠臣蔵」1 息継ぎ井戸・2度の急使・吉良の怪我の状態

  写真は播州赤穂のからくり時計を12日に撮ったものですが、その後ろに「息継ぎ井戸」が写っています。からくり時計になっていることは後で知り、ユーチューブで見ましたが、「忠臣蔵」のいくつかの場面が再現されています。  赤穂巡りめぐりは、海洋科学館を見た後、バスに乗り、息継ぎ井戸のところへ行きました。息継ぎ井戸は浅野内匠頭が元禄14年(…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1820 中野等氏「石田三成伝」2 昌幸と三成の相婿説を主張・その否定的な見解

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と石田三成は、妻が共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿であったというかねてからの説が踏襲されています。すなわち、「頼忠の本来の苗字は『尾藤』であった。尾藤家は信州中野郷を本貫とするが、頼忠の兄と目される尾藤知宣(とものぶ)(甚左衛門尉、実名は『知定』などとも)が藤吉郎時代の秀吉に家人…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1805大河ドラマ探訪470 「真田丸」137「三谷幸喜のありふれた生活・伏線を張る」

11月17日の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の「伏線を張るということ」は、文字通り「伏線」について説明されているのですが、その中で、「真田丸」の三成のことも触れられています。  すなわち、「石田三成が細川忠興に、干し柿を進呈するシーンがあった(これを柿Aとする)。実際に伝えられているエピソードを基に書いたのだが…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪469 「真田丸」136 九度山探訪4 抜け穴と伝わる真田古墳・さまざまな抜け穴伝説

 写真は真田の抜け穴と伝わる、九度山の真田古墳を撮ったものです。真田昌幸・信繁が住んでいた真田庵から東へ170メートル行ったところにあり、かつては信繁はこの抜け穴を使って大坂に行ったと言われていましたが、実際は古墳の入口であることが確かめられました。  しかし、信繁ゆかりの場所には、「真田の抜け穴」と伝わるものがいくつかあり、これも信…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪468 「真田丸」135 九度山探訪3 真田昌幸の墓・昌幸の生活・信繁の子女の異同

 写真は九度山の真田庵にある真田昌幸の墓を撮ったものです。昌幸はここで、大坂の陣を見ることなく、失意のうちに亡くなりました。  丸島和洋氏の「真田四代と信繫」(平凡社新書)には、九度山での昌幸について、「花押を武田時代のものに戻している。信玄の花押を模倣した花押を用いることで、往時を偲んでいたのかもしれない」ということ、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪467 「真田丸」134 九度山探訪2 真田庵・ 信繁は九度山で二男五女をもうける

 写真は真田昌幸・信繁が関ヶ原の戦いの後、暮らしていた屋敷があった真田庵を26日に撮ったものです。賽銭箱に真田家の六連銭の家紋が付いています。奥に見えているのが、善名称院の本堂です。写真に向かって右側には、信繁が落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったとの言い伝えがある「雷封じの井」、真田地主大権現を祀るお社が建っています。左側には昌幸の墓や史…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪466 「真田丸」133 九度山探訪1 高野口駅から徒歩・真田父子は高野山から九度山へ

写真はJR高野口駅を昨日撮ったものです。関ヶ原の戦いの後、真田昌幸・信繁が蟄居させられていた九度山へ青春18切符を利用して行ってきましたが、すでにこの駅から真田 ド満開でした。  まず京都の六地蔵駅から大阪駅に出て、家族に頼まれた買いものを済ませ、その後、再び大阪駅から、大和路線で奈良の王寺に出て、和歌山線に乗り換え高野口駅で降り…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪465 「真田丸」132「三谷幸喜のありふれた生活 『不屈の精神』」・馬印の引き返し

 22日の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の「『不屈の精神』描いた年」の中で、「真田丸」において描きたかった信繁の生き方について次のように記されています。  「僕は『滅びの美学』を描きたかったわけではない。どんな状況になろうとも、最後の最後まで諦めなかった、その不屈の精神。それこそが、僕が最終的にこの物語に託したテーマ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1804大河ドラマ探訪464 「真田丸」131「歴史人 真田幸村と大坂の陣」三成の記述

 「歴史人 2017年1月号 真田幸村と大坂の陣」に、三成のことが少しだけ出て来ます。  まず、江宮隆之氏の「幸村は、なぜ豊臣に殉じたのか?」の中で、「幸村と豊臣の絆を強めた3人の恩人」として、豊臣秀吉、大谷吉継、石田三成が取り上げられ、三成については次のように記されています。  「秀吉の馬廻衆・近習衆として側近く仕えた幸村は、三成…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪463 「真田丸」130 信繁の馬上筒・最後に正臣さん演じる正信を出した三谷氏の思い

 大河ドラマ「真田丸」最終回では、信繁が馬上筒を使って家康を仕留めようとしたところ、秀忠隊が現れて阻止される場面が描かれていましたが、信繁が馬上筒を使おうとしていたということは、以前の「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていました。昨年の幸村祭(「真田幸村公戦没400年慰霊祭)の時にも「真田幸村公 家康狙撃の銃」として展示されていたこと…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪462 「真田丸」129 新史料による信繁の最期・「歴史秘話」の千田嘉博氏の見解

 大河ドラマ「真田丸」が終わりました。真田信繁の最期について、ドラマでは佐助の介錯を受けて切腹しようとする場面が描かれていましたが、実際に信繁を討ち取ったのは、越前北庄城主の松平忠平隊の西尾宗次(仁左衛門) でした。拙ブログ記事で前述したように、「真田丸」展で、西尾宗次が造立したと伝わる、「真田地蔵」と云われている「石造地蔵菩薩」が展示…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1789大河ドラマ探訪461 「真田丸」128 「MEET三成展」のドラマの小道具類

写真は彦根城の開国記念館の紅葉を11月23日に撮ったものです。佐和山でののろし駅伝に参加した後、開国記念館で開催中の「MEET三成展」を見に行きました。「MEET三成展」を見学するのは三度目でしたが、二回目は11月5日でしたから、内容は全く変わっていませんでした。展示物でもう一度じっくり見たのは「真田丸」で使われていた小道具類でした…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1788 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」10 吉継の政治的役割2

 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、大谷吉継の政治的役割が論じられていますが、それに関して、水野伍貴氏と石畑匡基氏の見解が取り上げられています。  まず水野氏については、「すでに慶長4年(1599)10月段階で大谷吉継が奉行衆に準ずる格で登用されていて、その後も中央政治で…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪460 「真田丸」127太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回8  家康に協力した片桐且元

 太田浩司氏の「『真田丸』講座」第三回の中で、「片桐且元はどうして徳川方に協力せざるを得なかったのか?」ということについても取り上げられ、秀頼から且元の大坂城退去が命じられたことが大きいと指摘されていました。  拙ブログでも触れたように、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)でも、且元が大坂城から退去したことによって、家康が戦い…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1785 琵琶湖一周のろし駅伝 参加者全員で「えいえいおー」・手作り弁当をいただく

写真は11月23日、佐和山で琵琶湖一周のろし駅伝ののろしが上がった時に撮ったものです。のろし駅伝は今年で15回を数え、今年は33箇所の中世城跡をのろしでつなぎました。近江八幡の瓶割山から10時にスタートし、時計回りに次々とのろしが上げられ(むろん、隣の山にのろしが上がったのを目で確認した上でですが)、佐和山にのろしが上がったのは11時…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪459 「真田丸」126太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回7 如何に九度山を脱出したか

太田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座」第三回の中で、「真田信繁は如何にして九度山を脱出したか?」ということが取り上げられ、九度山の百姓に酒を飲ませ脱出したということが、「武林雑話」に記されていることが紹介されていました。 すなわち、真田信繁は「九度山辺橋本峠橋谷等の庄屋年寄を初百姓不残振廻せんと」、残らず九度山の宿所に呼び寄せて饗…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1784 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」7 島津忠恒宛二大老連署状

 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で取り上げられている「(慶長5年)8月朔日付島津忠恒宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状」ですが、白峰氏が作成された「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」には、その書状の内容について、次のように記されています。  「『天下之儀…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪457 「真田丸」124 太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回5 犬伏の密議?小山評定?

 太田浩司氏の「『真田丸』を三倍楽しむ講座」第三回で、「真田家が東西両軍に分かれた場所は犬伏か?」ということについても触れられ、上野板鼻・下野天明という記述もあることが述べられていました。  そのことを示すものとして、「落穂集」に、真田昌幸は天明に陣を張り、そこに犬伏にいる信幸を呼び寄せたという記述があること、「信濃史料」の中の「但馬…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1781 大河ドラマ探訪456「真田丸」123 太田氏の講座4 三成の家康襲撃計画否定

 太田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座 第三回」で、「石田三成の家康襲撃計画はあったのか?」ということについても、触れられていました。この襲撃計画については、「真田丸」でまるまる一回分を使って描かれていましたが、拙ブログ記事で以前、否定的な見解を述べました。太田氏も「当代記」にのみ記載されている事件であり、否定的な見解でした。  …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪455 「真田丸」122 太田浩司氏の「『真田丸』講座」第三回3 秀吉の遺言状

 太田浩司氏の「『真田丸』を三倍楽しむ講座」の中で、「豊臣秀吉の遺言状は存在したのか?」という話題に対して、「浅野家文書」「早稲田大学所蔵文書」「毛利家文書」に遺言状が残っており、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)の記述が取り上げられ、講座のレジュメにも掲載されていました。その記述は、「早稲田大学所蔵文書」「毛利家文書…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪454 「真田丸」121 太田浩司氏の講座第3回2 真田信繁の家族

 太田浩司氏の講座「真田丸」第3回で、真田信繁の家族について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の系図をもとに説明されていました。信之の妻については、昌幸の兄の信綱の娘である清音院殿(ドラマでは「こう」)と本多忠勝の娘である小松殿がおり、前者との間には信吉、後者との間には信政が生まれ、このあたりはドラマでもそのように描かれてい…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪452 「真田丸」119 「三谷幸喜のありふれた生活」方広寺鐘銘事件・清韓の意図と誤り

 朝日新聞に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」の「799 人間ドラマは細部に潜む」の中で、「方広寺鐘銘事件」のことが取り上げられています。  昔から「都合のよい四文字があったものだな」という疑問を三谷氏は持っていたが、今回「真田丸」で「驚愕の事実」が判明したと云います。  すなわち、「考証の先生のお話によれば、実際は『君臣豊…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大河ドラマ探訪451 「真田丸」118 信繁が老いを嘆いた書状の原本発見・老いた姿・大坂五人衆

 真田信繁が老いを嘆いたことを記している書状の原本が110年ぶりに発見されたという記事が25日付の新聞に出ました。原本が発見されたというのは画期的なことであり、わくわくした感動を覚えました。もっと早く見つかっておれば、「真田丸」展にも展示されていたかもしれません。  朝日新聞によると、丸島和洋氏が「実見」し、「内容や花押(サイン)など…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像1435 三谷幸喜氏が描いた昌幸の絵 「大関ヶ原展」6 昌幸像の解説・真田家の分裂

 6月18日に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の中で、三谷氏が真田昌幸のことが大好きなあまり、「さんまのまんま」の番組に出演した時、昌幸の似顔絵を書いてさんまさんにプレゼントしたということが紹介されています。  「残された肖像画のビジュアルも素晴らしく、そっくりに描いた僕の絵を見て『なんや、このくたばりぞこないのおっさんは』とさ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more