テーマ:戦国史

石田三成の実像2930 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」39 文禄2年7月12日付の蜂須…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、文禄2年(1593)7月12日付の蜂須賀家政宛徳川家康書状が掲載されており、次のように解説されています。  「徳川家康から蜂須賀家政に宛てられた書状。第二次晋州城の戦いの直後にあた…
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石田三成の実像2929 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」17 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」15 江戸にとどま…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、小山から8月5日に江戸に戻った家康の動きについて、次のように記されています。  「家康は江戸に帰還した後もすぐには西上を開始せず、西上を開始するのは岐阜城攻略の報せを受けた後の9月1日である。徳川秀忠の中山道進軍の目的が、信州上田の真田昌幸をは…
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石田三成の実像2928 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、天正12年の小牧・長久手の戦いにおける伊勢亀山城攻撃に従軍したことについて、次のように記されています。  「攻める秀吉方の部将は、中川秀政、高山右近、堀尾吉晴であり、守城側は織田信雄の家臣の滝…
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石田三成の実像2927 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」38 天正20年6月3日付の蜂須…

徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、天正20年(1592)6月3日付の蜂須賀家政宛豊臣秀吉朱印軍令書が掲載されており、次のように解説されています。  「天正20年(1592)に開始される『唐入り』において、家政は阿波の…
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石田三成の実像2926 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」16 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」14 小山評定はあ…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康は諸将と軍議を開いた上、会津攻めを中止して西上することを決めた「小山評定」について、拙ブログ記事で前述したように、白峰氏が否定的な見解が示されているのに対して、水野氏は本多隆成氏と同様、肯定的な見解が示され、それに関して福島正則宛徳川家康書状…
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石田三成の実像2925 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、天正13年の羽柴秀長の紀伊攻略に従軍したことについて、次のように記されています。  「天正13年(1585)の羽柴秀長の紀伊攻略では、本城惣右衛門は羽柴秀長の指揮下において戦闘行動をおこなって…
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石田三成の実像2924 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」37 蜂須賀蓬庵(家政)像 慶長…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、「蜂須賀蓬庵像」が掲載されており、次のように解説されています。  「蜂須賀氏は尾張を出自とし、織田信長に仕えた正勝が秀吉の与力に付属されたことで、秀吉の右腕として力量を発揮し、彼と…
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石田三成の実像2923 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」15 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」13 小山評定はあ…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康は諸将と軍議を開いた上、会津攻めを中止して西上することを決めた「小山評定」について、拙ブログ記事で前述したように、通説とは違ってこういう評定はなかったとする白峰氏の否定的な見解に対して、水野氏は本多隆成氏と同様、肯定的な見解が示されています。水…
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石田三成の実像2922 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、慶長5年7月の伏見城攻めに、豊臣公儀側の増田長盛の指揮下で戦ったその内容が具体的に記されており、その内容について、白峰氏の同書にまとめられていますが、それについて次のような考察もされています。 …
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石田三成の実像2921 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」36 「宇喜多氏分限帳」 宇喜多…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、宇喜多氏に関係したものとして、「宇喜多氏分限帳」が掲載されており、次のように解説されています。  「宇喜多氏分限帳は、豊臣期における宇喜多氏家中の人名と知行高が書き上げられた帳簿で、その写本が数多く伝来している…
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石田三成の実像2920 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」14 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」12 小山評定はあ…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康は諸将と軍議を開いた上、会津攻めを中止して西上することを決めた「小山評定」について、通説とは違ってこういう評定はなかったとする白峰氏の否定的な見解に対して、水野氏は本多隆成氏と同様、肯定的な見解を示されています。小山評定論争については、拙ブログ…
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石田三成の実像2919 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、慶長5年7月の伏見城攻めに、豊臣公儀側の増田長盛の指揮下で戦ったその内容が具体的に記されており、その内容について、白峰氏の同書にまとめられていますが、その続きです。  「(6)その戦闘は味方(攻…
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石田三成の実像2918 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」35 「戸川家譜」・宇喜多氏惣国…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、宇喜多氏に関係したものとして、「戸川家譜」が掲載されており、次のように解説されています。  「戸川氏は直家・秀家に二代にわたり、宿老として宇喜多氏に仕えてきた。本資料は、戸川氏の末裔が同氏の家伝を編纂したもので…
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和田裕弘氏の論考「豊臣秀吉の実子といわれる『石松丸』について」2 秀吉と赤松氏の娘との間に生まれた「太郎」・秀頼が…

 和田裕弘氏の論考「豊臣秀吉の実子といわれる『石松丸』について」の中で、秀吉の実子として、赤松氏の女性との間に「太郎」という男子を儲けたという史料も紹介されています。その史料は、岡山藩「家中諸士家譜五音寄」「吉備温故秘録」で、播磨赤松氏の家臣だった肥塚大炊介(助)は、秀吉が赤松家と和睦した時、秀吉に召しだされ、秀吉が赤松氏の娘「大田」と…
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石田三成の実像2917 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」13 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」11 家康は上杉氏…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康は上杉景勝の返事いかんにかかわらず、上杉攻めをする予定だったという見解が述べられていますが、それを示すものとして、慶長5年(1600) 5月26日付と推定される浅野長政宛浅野幸長書状も挙げられ、その内容について、次のように記されています。…
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受贈御礼 和田裕弘氏の論考「豊臣秀吉の実子といわれる『石松丸』について」 朝倉景鏡の子であり、景鏡が秀吉に養子とし…

 桐野作人氏より、織田信長家臣団研究会発行の会誌「天下布武」をお送りいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。 この会誌の中に、和田裕弘氏の論考「豊臣秀吉の実子といわれる『石松丸』について」が掲載されており、石松丸は秀吉の実子ではなく、朝倉景鏡の子であり、景鏡が秀吉に養子として差し出したという見解が示されています。  根拠とな…
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石田三成の実像2916 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、慶長5年7月の伏見城攻めに、豊臣公儀側の増田長盛の指揮下で戦ったその内容が具体的に記されており、伏見攻めの様子を知る上で貴重な史料です。その内容について、白峰氏の同書にまとめられていますが、まず…
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毎日放送の番組「ちちんぷいぷい&ミント」の「ナゼトキ」のコーナー2 大坂城に二つの天守・地下にある豊臣期の石垣を訪…

毎日放送の番組「ちちんぷいぷい&ミント」の「ナゼトキ」のコーナーで漫才コンビ「学天即」の奥田さんは、琵琶湖の竹生島へ行く前、現在の大阪城を訪ねていましたが、秀吉の死後、家康が大坂城西の丸に別の天守閣を建て、豊臣家に喧嘩を売っていたと説明していました。そのことを示すものとして、「大坂夏の陣図屏風」の中に、二つの天守閣が描かれていることが挙…
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石田三成の実像2915 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」34 文禄2年10月1日付の豪姫…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、宇喜多氏に関係したものとして、文禄2年(1593)10月1日付の豪姫宛豊臣秀吉自筆書状が掲載されており、次のように解説されています。  「宇喜多秀家の室・豪姫は前田利家の四女で、幼少期に秀吉の養女になっていた。…
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番組「ちちんぷいぷい&ミント」の「ナゼトキ」のコーナー・大坂城極楽橋を移築した竹生島の宝厳寺唐門を訪ねる・浅井氏の…

毎日放送の番組「ちちんぷいぷい&ミント」の「ナゼトキ」のコーナーで漫才コンビ「学天即」の奥田さん(相当な学識をお持ちです)が、豊臣時代の大坂城にあった極楽橋を移築した、琵琶湖の竹生島の宝厳寺の唐門を訪ねていました。唐門は7年かけて修復され秀吉当時の絢爛豪華な姿によみがえっています。解説は太田浩司氏が務めておられました。宝厳寺の唐門が極楽…
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石田三成の実像2914 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」12 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」10 家康は上杉氏…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康はまず前田利長を屈服させ、次に上杉氏に標的を定めるという、個別撃破の手法を取ったという論が展開されていますが、その経緯について次のように解説されています。  「(慶長5年)5月に利長の母である芳春院が江戸に下向したことにより、前田氏が上杉氏…
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石田三成の実像2913 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」52 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとって…

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、10月20日に龍造寺・鍋島軍と立花宗茂が戦った江上八院の戦いについて、立花側については、立花宗茂の発給文書(感状・合戦手負注文類)が残り、白峰氏が詳細な戦闘状況を復元さ…
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石田三成の実像2912 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」33 文禄2年2月15日付の本田…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、宇喜多氏に関係したものとして、文禄2年(1593)2月15日付の本田五郎右衛門宛宇喜多忠家書状が掲載されており、次のように解説されています。  「宇喜多忠家は秀家にとって叔父にあたる人物で、後見役として彼を補佐…
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石田三成の実像2911 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」11 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」9 家康と前田利長…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、「家康暗殺計画に関する風聞に端を発した、加賀征討へ向かおうとする一連の動きについて」虚構だとする大西泰正氏の説に対する否定的見解が次のように記されています。  「論拠の柱になっているのは、同時代史料による裏付けを欠く点、『当代記』『象賢紀略』と…
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石田三成の実像2910 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」51 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとって…

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、勝茂が領国に戻り、龍造寺・鍋島軍が立花宗茂を討とうとした時、鍋島茂里が「鍋島氏執政体制のさらなる強化を図ろうとした」と指摘されていますが、次のようなことも記されています…
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石田三成の実像2909 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」32 昭和に描かれた宇喜多秀家像…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、宇喜多氏に関係したものとして、宇喜多秀家像が掲載されており、次のように解説されています。  「備前国(現在の岡山県)を本拠とする宇喜多氏は、秀吉が織田氏の部将として中国攻めを担当していた頃から深いつながりを持つ…
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石田三成の実像2908 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」10 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」8 家康と前田利長…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康が「大老衆の排斥において、家康が最初の標的としたのは前田利長であった」と記されていますが、その時の家康の動きについて、次のように記されています。  「越前に軍勢を配置して利長を牽制していた。また、加賀小松の大名丹羽長重は家康の厳命を受けて国…
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石田三成の実像2907 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」50 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとって…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、勝茂が領国に戻り、龍造寺・鍋島軍が立花宗茂を討とうとした時、鍋島茂里が「鍋島氏執政体制のさらなる強化を図ろうとした」と指摘され、茂里について次のようなことが記されています…
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石田三成の実像2906 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」31 慶長3年1月17日付の小早…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、小早川氏に関係したものとして、慶長3年(1598)1月17日付の小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状が掲載されており、次のように解説されています。  「慶長3年(1598)正月、秀吉から秀秋に宛てられた書状。小早川氏を相…
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石田三成の実像2905 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」9 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」7 前田利長を標的に…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康が「大老衆の排斥において、家康が最初の標的としたのは前田利長であった」と記されていますが、その背景として、「三成の失脚後、毛利・四奉行連合は事実上解体。増田長盛ら奉行衆は家康に協力的な立場をとり、毛利輝元も閏3月21日に家康と誓紙を交わして…
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