テーマ:戦国史

石田三成の実像3436 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」9「秀次事件に関する記載」7 7月25日…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、遠藤珠紀氏の「豊臣事件事件と金銭問題」の次のような指摘も取り上げられています。  すなわち、「『(文禄4…
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石田三成の実像3435 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」8「秀次事件に関する記載」6 謀叛の嫌疑…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、遠藤珠紀氏の次のような指摘が取り上げられています(『豊臣秀次と金銭問題』)。  「『もともと秀吉に秀次殺…
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石田三成の実像3434 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」7「秀次事件に関する記載」5  谷徹也氏…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、事件後の状況について次のように記載されています。  「彼(秀吉)の甥(秀次)、及び地位の高い人々が死去…
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旅行記316 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる8 石田三成の実像3432 関ヶ原古戦場記念館見学2  動く「…

関ヶ原古戦場記念館には、描かれた人物たちが動く「関ヶ原合戦図屏風」が展示されていました。なかなか面白い趣向だと思いましたし、しばし見入りました。これは写真OKでした。家康の養女の満天姫が津軽二代目藩主信枚に嫁ぐ時に家康が持たせたものをもとに作られています。信枚にはすでに石田三成の三女の辰姫が嫁いでいましたが、満天姫が信枚の正…
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旅行記315 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる7 石田三成の実像3431 通説で三成の陣跡とされる笹尾山・関…

10月24日、米原の梓河内から関ヶ原に戻り、通説で三成が陣を置いたとされる笹尾山に行きました。  千田嘉博氏が最近、三成らが陣を置いたという新説を出された玉城跡(城山)が、笹尾山から遠くに望めます。もし三成らが大垣城から玉城まで移動したとすれば、かなりの距離を夜中に歩いたことになります。三成が笹尾山に陣を置いたことは、一次史料にも…
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旅行記314 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる6 石田三成の実像3430 梓河内の石田家の菩提寺である常福寺…

 23日、みんなで梓河内に向かいました。石田三成が梓河内の石田家の血筋だと書かれているのは、妙心寺の寿聖院(三成の長男の重家が出家した寺)に伝わる「霊牌日鑑」であり、その書には、木曽義仲を討ち取った石田為久が、後に流浪して京極氏を頼り、梓河内の猪鼻城を預かり、それが三成の遠祖であると書かれています。そのことは、石田多加幸氏の「石田三成写…
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旅行記311 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる3 石田三成の実像3427 高橋説による宇喜多・小西陣跡・三成…

 高橋陽介氏が宇喜多秀家・小西行長の陣跡とされている場所(写真は東端のあたりを撮ったもので、堀切があります)と、家康方の福島正則陣跡、井伊直政・松平忠吉陣跡とは近い距離にあり、彼らの間で戦いが始まったことがうなずけます。白峰旬氏と高橋氏は主戦場が関ヶ原エリアではなく、山中エリアであったという見解では一致していますが、三成ら豊臣公儀方…
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旅行記310 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる2 玉の火薬庫営門と立哨台 石田三成の実像3426 三成が陣を…

 11月22日、玉城跡を下った後、その近くにある玉の火薬庫営門と立哨台が立っているところに立ち寄りました。関ヶ原町の玉に東洋一の火薬庫が作られたのは、第一次世界大戦の途中のことでした。当時は立派で厳重な門が作られていました。そのそばに遺跡らしきものも残っていました。立哨台には、同行者の一人に中に入ってもらったので、感じがよくつかめま…
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旅行記309 高橋陽介氏の主催で大垣・関ヶ原をめぐる1 玉城登山・石田三成が陣を置いたとする千田嘉博氏の見解をめぐ…

 10月21日から23日にかけて大垣・関ヶ原方面へ行ってきました。大垣のビジネスホテルに2泊しましたが、22日から23日にかけて、高橋陽介氏が主催する、関ヶ原・大垣周辺の遺跡旧跡をめぐる旅に参加するため、前泊しました。高橋氏は一次史料の分析などによって関ヶ原合戦などに関する新説を次々出されています。  21日は昼過ぎに大垣に着き、駅の…
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石田三成の実像3425 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」6「秀次事件に関する記載」4 谷徹也氏の…

白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」について、拙ブログ記事で前述したように、白峰氏の同書では、「秀吉が京都を鎮圧するために4万5000の兵力を軍事…
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石田三成の実像3424 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」5「秀次事件に関する記載」3 原因として…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」について、拙ブログ記事で前述したように、白峰氏の同書では、次のように指摘されています。  「①国王である秀吉が秀…
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石田三成の実像3423 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」4 「秀次事件に関する記載」2 秀次は関…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、この事件について、次のようなことが記されていることが取り上げられています。  「(秀吉は)都の国王で多く…
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石田三成の実像3422 白峰旬氏「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」3 「秀次事件に関する記載」1 天正20年…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、まず、天正20年(1592)5月の時点における、秀吉と秀次の関係について、次のような記載が取り上げられてい…
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石田三成の実像3421 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の中で、石田三成が「イエズス会の司祭たちの味方である」と記されていることは拙ブログで前述しましたが、次のようなことも記されています。  「…
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石田三成の実像3420 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係…

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の中で、石田三成のことにも触れられています。  まず豊臣秀頼に関する表記についての考察の中で、秀吉の死後、「『同国をその幼い一子(秀頼)に…
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石田三成の実像3419 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」24 「『関ヶ原』の戦い」 慶長5年9月17日付の松平家乗…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、関ヶ原の戦いについて、戦いの場所や経緯について、従来の説とは違った新たな説が出ており、議論が活発になっていることに触れながらも、深入りは避けられていました。講演会では、それについて論じる時間的な余裕もなかったということもありますが、関ヶ原の戦いについて記した一次史料として、合戦2日後の 慶長5年…
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石田三成の実像3418 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」23 「三成の復権と新たな『公儀』の成立」3 慶長5年8月…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の「三成の復権と新たな『公儀』の成立」の中で、慶長5年8月5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛の石田三成書状が取り上げられ、特に九条と十条の部分について注目されていました。  「一、軍勢の配置を書き出した書を御覧にいれるため進上します。(以下略)」  「一、拙者はまず尾張へ出て、織田秀信(岐阜中納言)殿と…
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石田三成の実像3417 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」22 「三成の復権と新たな『公儀』の成立」2 慶長5年8月…

中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の「三成の復権と新たな『公儀』の成立」の中で、二大老四奉行体制による新しい豊臣公儀が発足したことを示す史料として、慶長5年8月4日付の松井康之宛の二大老連署状、及び四奉行連署状も取り上げられていました。中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも、これらの連署状が掲載されていますが、まず二大老連署状の方は…
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石田三成の実像3416 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」21 「三成の復権と新たな『公儀』の成立」1 慶長5年8月…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の「三成の復権と新たな『公儀』の成立」の中で、慶長5年8月2日付の真田昌幸宛二大老四奉行連署状が取り上げられていました。二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)と四奉行(長束正家・増田長盛・石田三成・徳善院前田玄以)が揃って発した書状の最初は、8月1日付のものですが、新たな豊臣公儀が正式に発足したことを示すもので…
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石田三成の実像3415 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」20 「三成の退隠」6 三奉行に政権の正当性があることを示…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、三奉行に政権の正当性があることを示す史料として、慶長5年7月23日付の最上義光宛家康書状が取り上げられていました。この書状については、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)にも掲載されており、次のように現代語訳されています。  「確実を期して申し入れます。石田三成(治部少輔)・大谷吉継(刑部少輔…
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石田三成の実像3414 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」19 「三成の退隠」5 三奉行が命令の決定権を持っていたこ…

中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、慶長5年7月17日に家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が公布される前後の書状がいくつか取り上げられていましたが、7月17日付の島津義弘宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状もその一つです。この連署状は、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)にも掲載されていますが、次のように現代語訳されています。 …
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石田三成の実像3413 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」18 「三成の退隠」4 慶長5年7月15日付の上杉景勝宛島…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、慶長5年7月17日に家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が公布される前後の書状がいくつか取り上げられていました。  まず7月15日付の上杉景勝宛島津義弘書状に触れられていましたが、この書状は中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)でも取り上げられ、次のように現代語訳されています。  「いまだ書信…
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石田三成の実像3412 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」17 「三成の退隠」3 三奉行連署状の正統性 

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、慶長4年閏3月、三成が退隠し、さらに9月に浅野長政が解職され、蟄居になるに及んで、いわゆる五奉行は三奉行になったものの、三者連署状、いわゆる三奉行連署状の正統性は保たれたと指摘されていました。任務の分担もなされており、前田玄以は朝廷、増田長盛は全国支配、長束正家が財務をそれぞれ担当していたと説明…
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石田三成の実像3411 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」16 「三成の退隠」2 増田長盛も引退に追い込まれる可能性…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、三成を失脚させようとする騒動(中野氏は通説通り「三成襲撃事件」と捉えておられましたが、水野伍貴氏・白峰旬氏は「三成らに対する訴訟騒動」だっと主張されています)で、大坂から伏見に移った三成が、通説では家康の屋敷に逃げ込んだとされているものの、実際は伏見城の治部少丸であったとする笠谷笠谷和比古氏の見…
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石田三成の実像3410 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」15 「三成の退隠」1 前田利家の死去により均衡状態が崩壊…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、秀吉死後、さまざまな政策課題を抱え、主導権争いがありながらも、大老・奉行による十名による合議制が機能してきたものの、慶長4年閏3月の前田利家の死去によって、それまで保たれてきた均衡状態が崩壊し、秀吉遺言体制が破綻したと説明されていました。加藤清正・細川忠興らが前田利家派であったため、利家の死は力…
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石田三成の実像3409 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」14 「『奉行』から『執政』へ」4 秀吉没後の領知改編

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、秀吉没後の豊臣政権が取り組むべき問題として、「朝鮮半島からの撤兵 大名統制」「(領知改編など)朝廷との交渉」「海賊停止」「豊臣家蔵入り地の管理」「費用等豊臣家の財政」「治安維持・訴訟対応」が挙げられ、十名による合議制であったものの、三成ら奉行衆が中心となって取り組んだと説明されていました。  …
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山路興造氏の講演「藤原氏の拓いた宇治ー離宮祭を中心にー」 京都探訪390 太閤堤の石積み護岸の復元

 6日、「お茶と宇治のまち歴史公園」(太閤堤跡史跡公園)内の施設「茶づな」で行われた山路興造氏の講演「藤原氏の拓いた宇治ー離宮祭を中心にー」を聴きに行きました。宇治は藤原氏の別荘地になって発展したところですが、それを宇治神社の祭礼である「離宮祭」の変遷をたどることによって明らかにされていました。平安時代に、それまで宇治の住民の氏神で…
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石田三成の実像3408 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」13 「『奉行』から『執政』へ」3 慶長4年1月23日付の…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、慶長4年1月23日付の毛利輝元・秀元宛石田三成・増田長盛連署状が取り上げられていました。この連署状については、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)にも掲載され、次のように現代語訳されています。  「秀元への御国割については、太閤(秀吉)様が仰せ出された方向性があったものの、ご病気であったので(…
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石田三成の実像3407 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」12 「『奉行』から『執政』へ」2 奉行の序列・秀吉没後は…

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、三鬼清一郎氏の「豊臣秀吉文書の概要について」をもとに、秀吉書状の「添状」の発給者(それが奉行ということになりますが)について、一覧表にしてレジュメに掲載されています。それには、天正11年から14年にかけては、25名の名が載っています。むろん、この中には、後にいわゆる五奉行となる前田玄以・浅野長吉…
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京都探訪388 「千總ギャラリー」の「伊庭靖子展」と「千總の屏風祭展」 衣棚通の廣野了頓邸跡碑

 8月26日、1ヶ月半ぶりに妻と外出し「千總(ちそう)ギャラリー」を訪ねました。一緒に近くのスーパーへ買い物は行くことはよくありますが。「伊庭靖子展」と「千總の屏風祭展」が開かれていました。展示されていた伊庭氏の作品は、いずれも全体的にはおぼろげな、もやみたいなものがかかっている中に、自然の風景やオブジェが繊細なタッチで描かれていま…
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