テーマ:戦国史

旅行記274 石田三成の実像3141 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣7 新しく生まれ変わった関ヶ原古戦場記…

 関ヶ原駅に戻る途中、以前は関ヶ原町歴史民俗資料館があった場所に、もっと大きな規模の関ヶ原古戦場記念館が建っていました。その日(9日)はコロナ禍の影響で予約制になっていましたが、館内がどう変わっているのかまた訪ねたいと思っています。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の本には、関ヶ原古戦場史跡(通説に基づくものですが)めぐり…
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石田三成の実像3140 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」145 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、小早川秀秋は関ヶ原合戦の際、最初から家康寄りであったという「寛政重修諸家譜」(稲葉正成系譜)の内容が紹介されていますが、伏見城攻め前後のことは次のように記されています。  「秀秋は、家康から伏見城(京都市伏見区)の守備を…
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旅行記273 石田三成の実像3139 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣6 関ヶ原北小学校跡地に笹尾山交流館・…

   2000年の関ヶ原合戦400年祭の時に合戦の場面が再現されていたのは笹尾山の隣の関ヶ原北小学校のグラウンドにおいてであり、私は笹尾山の馬防柵のところからずっと見ていました。しかし、今は北小学校は南小学校と統合され、閉校となり、今は校舎の一部は笹尾山交流館になっており、グラウンドは広場になっています。笹尾山の三成陣跡の麓におかれて…
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石田三成の実像3138 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」144 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、小早川秀秋は関ヶ原合戦「当日に裏切ったというよりも、前日に家康と起請文を交わしていたというのが正しい」と指摘されています。  その根拠として挙げられているのは、「関原軍記大成」に掲載されている9月14日付の、小早川秀秋の…
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旅行記272 石田三成の実像3137 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣5  通説では三成が陣を置いたとされる…

 9日の午後、玉城跡から、通説では関ヶ原の戦いで石田三成が陣を置いていたとされる笹尾山まで歩いて30分以上かかりました。2000年に関ヶ原合戦400年祭が行われた時、笹尾山のそばの関ヶ原北小学校のグラウンドで合戦の様子が再現されましたが、私は初めてその時に関ヶ原を訪ねました。笹尾山には馬防柵が造られ、旗印がなびいていますが、こういう光景…
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石田三成の実像3136 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」143 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、三人をまとめて取り上げたことについて、「三人が東軍の勝利に貢献した」点が挙げられ、「三人の関ヶ原本戦における戦いぶりを取り上げ」ておられますが、「注意すべきこととして、一次史料に戦いぶりが詳述されていることはなく、多くは二…
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旅行記271 石田三成の実像3135 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣4 玉城跡を探訪2 「歴史道」の千田嘉…

「歴史道 関ヶ原合戦」(朝日新聞出版)の中に、千田嘉博氏のインタビュー記事「新発見!巨大城郭『玉城』から読み直す関ヶ原の戦い」が掲載されています。NHKの番組で紹介されたことと重なりますが、千田氏によれば、巨大な「玉城」に三成らは豊臣秀頼や毛利輝元を迎え入れるつもりで、あらかじめ構築したものだと推定されています。関ヶ原方面への大手道や連…
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石田三成の実像3134 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」142 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」14 江上八院の戦…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、鍋島・龍造寺家が立花宗茂を攻めた江上八院の戦いについても概略が述べられていますが、この戦いについては、白峰氏・中西氏共著の「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の中で、詳述され考察を加えられており、拙ブログでも以前取り上げましたから、…
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旅行記270 石田三成の実像3133 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣4 三成らが関ヶ原の戦いの本陣として考…

1泊した彦根を後にして、9日は電車で関ヶ原駅に移動し、まず関ヶ原の西にある玉城跡へ登りました。玉城は、千田嘉博氏が関ヶ原の戦いの時に三成ら豊臣公儀側が本陣として考えていた城であったという新見解を示され、NHKの歴史番組でも紹介されました。千田氏は秀頼や毛利輝元をこの巨大城郭に迎え入れる予定だったとされていますが、実際には、秀頼も毛利輝元…
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石田三成の実像3132 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」141 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」13 柳川攻めの意…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの後に、家康の命令のもと、鍋島・龍造寺家が立花宗茂を攻めた江上八院の戦いについても記されていますが、この戦いについての詳しい分析は、白峰氏・中西氏共著の「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の中で、詳述され考察を加えられてお…
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旅行記269 石田三成の実像3131 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣3 佐和山城跡2 千貫井戸・女郎谷・太…

佐和山城の井戸跡である千貫井戸にも足を運びましたが、落葉が重なっているだけで水はほとんどないように見えました。しかし、枯れることのない井戸だと言われているので、落葉の下の方には水がたまっているのかもしれません。佐和山にこのような水があるのは、貴重で、千貫にも代えがたいというので、そう呼ばれるようになったということが、江戸時代の享保12年…
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石田三成の実像3130 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」140 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」12 関ヶ原の戦い…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの際における直茂・勝茂の姿勢について、次のようにまとめられています。  「直茂も終始一貫西軍方の立場を標榜していたわけで、直茂・勝茂父子が東軍・西軍双方に便宜的に分かれて龍造寺家の安泰を図ろうとしたという事実はなかったことになる。た…
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旅行記268 石田三成の実像3129 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣2 佐和山城跡 山頂に立ち敗者の悲哀を…

 8日、大洞弁財天の奥の院から東山ハイキングコースを通って、佐和山城跡まで歩きましたが、かもう坂通り往還と佐和山山頂への分岐点まで30分近くかかりました。以前歩いた時より、長く感じましたが、山登り自体、2年ぶりだったので、体力が落ちているのかもしれません。   西の丸跡を通り、山頂まで登りました。それまで人の姿はほとんど見かけませんで…
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石田三成の実像3128 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」139 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」11 日隈城の留守…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の国許にいる直茂について、 「西軍方としての立場を取り続けた」ものの、「毛利高政の留守城の豊後日隈城から黒田如水の脅威に対抗するための加勢を求められた際には、加勢は出すべきとしながら、」「実際に軍事行動を起こすことに対しては慎重な態…
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石田三成の実像3126 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」138 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」10 関ヶ原の戦い…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の国許の直茂について、次のように記されています。  「関ヶ原本戦での東軍大勝利の報が届いて以降も、勝茂の西軍加担の罪で龍造寺家が公儀の征伐を受けるか赦免されるか、それが確定するまでは直茂は在国する西軍方諸大名や留守居の家臣と連携し…
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石田三成の実像3125 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」137 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」9 直茂の苦悩2 …

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い前の国許にいる直茂の苦悩について、次のように記されています。  直茂は「9月10日付の書状で、家康与党として挙兵することを伝えてきたとおぼしい黒田如水に対して、今後は書状を出さない、すなわち断交を宣言したのである。ただし追而書に、言…
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石田三成の実像3124 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」136 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」8 国許にいる直茂…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い前の国許にいる直茂の苦悩について、次のように記されています。  「勝茂からは(おそらくは西軍方の軍役規定に不足分の)人数・弓・鉄砲を上方に送るようにとの催促が来る。また、奉行衆や安国寺恵瓊 からは直茂自身が軍勢を率いて上坂するよう…
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大阪府立茨田高校の元同僚との京都散策2 狭くなった方広寺・大仏と大仏殿の悲哀の歴史・遺構が発見された大仏殿跡緑地公園

 豊国神社からそのすぐ北隣の方広寺を訪ね、大坂の陣のきっかけとなった、梵鐘の銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の部分(そこだけ白色で四角く字が囲まれています)を見ました。本堂は公開されていませんでしたが、当時の大仏の10分の1のレプリカが安置されています。今の方広寺の境内は狭くなっていますが、かつては今の豊国神社から京都国立博物館、さらには…
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石田三成の実像3123 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」135 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」7 敗戦後の勝茂は…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの敗戦を知った勝茂の動きについて、次のように記されています。  「勝茂は、澎湃として起こる落ち武者狩りに悩まされながら大坂に引き揚げた。壮絶な敵中突破の末に和泉堺にたどり着き、海路帰国しようとした島津義弘は勝茂に使者を遣わして同行を…
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大阪府立茨田高校の元同僚との京都散策1 正面通から耳塚、豊国神社へ かつて秀吉が建てた方広寺大仏殿があった場所

 9月30日、大阪府立茨田高校の元同僚3人と京阪七条駅で待ち合わせして、一緒に耳塚、豊国神社、方広寺、大仏殿跡緑地公園、六波羅蜜寺などを回ってきました。コロナ禍でなかなか会えず、ほぼ2年ぶりの再会でした。案内役は私が務めました。  まず正面通から東に真正面に見える豊国神社まで歩きましたが、その手前の右側(南側)に耳塚があります。耳塚は…
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石田三成の実像3122 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」134 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」6 美濃方面に転進…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原大乱の際、豊臣公儀方に付いた勝茂・龍造寺軍の伊勢方面の動きについて、次のように記されています。  「龍造寺軍は毛利秀元、吉川広家らとともに伊勢方面を経略、阿濃津城・松阪城を攻略した。これにて伊勢方面はほぼ平定されたのだが、東軍が予想外の積…
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石田三成の実像3121 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」133 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」5 勝茂・龍造寺軍…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原大乱の際、豊臣公儀方に付いた勝茂・龍造寺軍の動きについて、次のように記されています。  「龍造寺軍の兵力は約7000。西軍では100石3人役を課したようで、当時の龍造寺家の石高30万9900石にしてはやや少なく、事実、勝茂は2000の増派…
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石田三成の実像3120 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」132 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」4 会津攻めの際は…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、慶長5年の家康が中心となって発動した会津攻めの際の、直茂の動きについて、次のように記されています。  「直茂も当然の如く従軍を願った。慶長4年の龍造寺家の財政報告書である『目安』は在京家臣団にかかる費用が在国家臣団の二倍近くを計上している。かな…
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石田三成の実像3119 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」131 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」3 家康との結びつ…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、秀吉の死後、直茂と家康との結びつきを強めた慶長4年の動きについて、次のように記されています。  「伏見で越年した直茂は家康に年賀の挨拶を済ませた後、家康の重臣井伊直政を訪ねて向後家康への忠節を抽んずる覚悟がある由を申し置いた。直政からそのことを…
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石田三成の実像3118 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」130 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」2 秀吉死後の動き…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、秀吉の死後の直茂の動きについて、次のように記されています。  「慶長3年(1598)11月、嫡男の勝茂とともに朝鮮に在陣していた直茂に、秀吉死去に伴う撤兵命令が届く。秀吉の死後の政局を睨み、直茂は徳川家康が派遣してきた特使の徳永寿昌を仲介に家康…
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石田三成の実像3117 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」129 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」1 家康の計らいに…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、直茂の生涯、及び佐賀藩について、まず端的に次のように記されています。  「鍋島直茂の生涯は主君龍造寺隆信の覇業を助け、隆信横死後は龍造寺家存続のために粉骨砕身尽力するものだった。結果的に龍造寺家を鍋島家が継ぐことになってしまったが、それは決して…
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石田三成の実像3116 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」128 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」7 大名復帰か…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、改易され浪人した盛親の動きについて次のように記されています。  「慶長6年(1601)には京都の伏見に『在宅』し、『身上』が定まっていない様子がうかがえる(『萩藩閥閲録』)。しかし、大名復帰に向けた再仕官活動を行っていたと思われる史料も確認で…
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石田三成の実像3115 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」127 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」6 土佐に戻…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、土佐に帰国した盛親の動きについて次のように記されています。  「盛親は当初、江戸方の追撃に備え、防備を整えていた。『給人、一人も残らず妻子共、召連れ当城(=浦戸城)へ』と命じつつ、『無足人(所領を給付されていない下層家臣)の事、手あしの立候も…
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石田三成の実像3114 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」126 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」5 敗戦を知り…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、南宮山(具体的には栗原山)に陣した盛親が大坂方(豊臣公儀方)の敗戦をどのように知ったのかは諸説あって判然としないことについて、次のように記されています。  「盛親の重臣、吉田孫左衛門が敵陣へ潜入して敗戦を知ったであるとか、敗走してきた島津軍…
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石田三成の実像3113 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」125 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」4 吉川広家の…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、盛親らは伊勢方面を攻めた後、美濃方面に移動して、南宮山に布陣しますが、そのことについて次のように記されています。  「盛親らの軍勢は慶長5年9月10日前後に南宮山(岐阜県大垣市ほか)の尾根沿い東南の栗原山に布陣したのだが、合戦の大勢が決する…
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