テーマ:京都探訪

京都探訪297  ねじりまんぽ・インクライン(傾斜鉄道)の台車・二番目に下宿していた民家

「泉屋博古館」へは、京都地下鉄で蹴上駅へ出、そこから北へ歩いて、東天王町の交差点に出、そこを東に折れました。徒歩で20分ほどかかります。蹴上駅から南禅寺や、そこから北へ歩いて永観堂、哲学の道へ行く時は、いつも「ねじりまんぽ」(「まんぽ」はトンネルの意)を通り抜けるのですが、「泉屋博古館」へ行く時に久しぶりに前を通ったら、そばに説明掲示板…
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大阪探訪140 地蔵盆で踊った子供の頃・軒先に掛かっていた四角い行燈・「線香買うて」と子供が回ったという短歌

 今、パソコンを使って短歌誌の次号の編集に取り組んでいますが、短歌会の会員の作品に、地蔵盆を詠んだものがあります。昔は子供たちが家々を回って「線香買(こ)うて」と言ってきたが、今はそういう風習がなくなってしまった寂しさが歌われている歌です。  私も子供の頃は、町内で地蔵盆があり、お地蔵さんのところで、盆踊りを踊るとお菓子がもらえ、それ…
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京都探訪296「泉屋博古館」の「中国青銅器の時代」展と「文化財よ、永遠に」展 住友春翠の青銅器の収集 「明月記」「…

京都・鹿ケ谷にある「泉屋博古館」へ行ってきました。「中国青銅器の時代」展と「文化財よ、永遠に」展が開催されています。「中国青銅器の時代」展は住友家が収集した青銅器が展示されており、第1室から第4室まで、多種多様の、用途や文様もさまざまなものが並べられ、よくもこれだけ数多くの青銅器を集めたものだと驚嘆しました。古くは商(殷)の時代の紀元…
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京都探訪295「京博寄託の名宝」展3 海北友松の「雲龍図」・死ぬ直前の後鳥羽上皇宸翰・承久の変

「京博寄託の名宝」展には、関ヶ原の戦い関係のものは何も展示されていませんでした(島根の清水寺所蔵の徳川家康所用胴服はありましたが。 関ヶ原の戦いの前年のものでは、建仁寺所蔵の海北友松が描いた「雲龍図」、隣華院所蔵の長谷川等伯が描いた「山水図襖」が展示されていました。「雲龍図」は、八幅のうち4幅でしたが、それでも圧倒的な迫力がありました…
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京都探訪294「京博寄託の名宝」展2 俵屋宗達「風神雷神図」・秀吉関連のもの・方広寺の石垣跡

「京博寄託の名宝」展に、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」も展示されていました。建仁寺の所蔵ですが、京博に寄託され、建仁寺にあるのは複製品です。    京博の一階の写真撮影コーナーには、俵屋宗達と尾形光琳の「風神雷神図屏風」の複製が並んで置かれており、その違いを間近で見ることができました。光琳は宗達の「風神雷神図屏風」を約百年後に模写しま…
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京都探訪293「京博寄託の名宝」展1 伝源頼朝像・宝誌和尚立像・伝野々村仁清作の香炉・狩野正信作の図屏風

 先週、京都国立博物館の平成知新館で開催中の「京博寄託の名宝」展を見に行きました。各地の神社仏閣などから寄託されている国宝、重要文化財を中心に約140点展示されていました。3階から1階にかけて見ごたえのあるものがずらりと並んでおり、一通り見て回るだけでも2時間近くかかりました。京都で国際博物館会議が開かれたのを記念して開かれていたもので…
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京都探訪292「千總展」と「龍村美術織物展」 京伝統工芸の技と美・進取の精神で生き抜く

8月に京都高島屋で開催されていた「千總展」を、次いで9月にやはり高島屋で開催されていた「龍村美術織物展」を見に行きました。朝日新聞にこれらの展覧会のことが紹介されていたからですが、むろん、京の伝統工芸の技と美の世界を見に行きたいということもありました。  「千總展」は、華麗で繊細な京友禅の着物や、日本画家の岸竹堂や今尾景年が描いた下…
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京都探訪290 吉田家住宅の特別公開 風の通りをよくする部屋の配置と土間の通り庭  

「京の夏の旅」の文化財特別公開中の吉田家住宅の見学に行ってきました。祇園祭の「北観音山」の町内に建っていて、昭和26年まで白生地問屋として営業されていました。店舗は新町通に面していました。  店舗の奥に中庭があり、中の間、奥の間(床の間がついています)と続き、さらに奥庭があります。風の通りをよくするための造りです。また夏向けにすだれを…
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石田三成の実像2667 半年ぶりの伏見城跡巡り

18日に、大阪府立大手前高校で同僚だった人と、伏見城跡などを巡ってきました。3時間、途中休憩もなく案内しましたが、よく付き合っていただきました。この日のことは、フェイスブックの方でも、写真入りで記しています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大手筋通の店でま…
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三成の実像2425 京都探訪289 太閤堤跡歴史公園の事業計画

フェイスブック(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem)でも記しましたが、宇治市で、今、大きな問題となっているのは、「太閤堤跡歴史公園」の建設です。88億円という巨額な費用がかかり、2業者の応募の末、業者は決まったものの、審査も不透明で、批判を浴びています。  歴…
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石田三成の実像2188 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」6

 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、前述したように、慶長4年(1599)1月中旬に、家康と伊達政宗の間の縁辺問題が浮上したことが取り上げられていますが、それに関して「慶長年中ト斎記」に、「三成が徳川邸を襲撃するという風聞があり、徳川邸では備えを…
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石田三成の実像2186 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」4 寺沢正成書状

 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の多数派工作に関して、慶長4年(1599)1月5日付の島津忠恒・立花宗茂・小早川秀包・高橋直次・筑紫広門に宛てた寺沢正成(広高)書状が取り上げられています。この書状は、「家康が催す茶会への参加を促し、『明…
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石田三成の実像2185 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」3 家康の多数派工作

 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、朝鮮半島からの撤兵の差配のために三成が博多に赴いていた間に行っていた、家康の多数派工作について記されています。  家康が屋敷を訪ねた大名は、慶長3年(1598)11月24日に織田信包、25日に増田長盛、26…
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石田三成の実像2184 中野等氏「石田三成伝」95 秀頼のもとで大坂城の勤番

中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長3年(1598)12月24日に博多から大坂に戻った三成が、「早速中央の政務に復帰し」、「12月26日付で他の奉行衆と五名連署で園城寺(三井寺)充て寺領充行状(あてがいじょう)を発して」おり、翌年「正月5日付で関一政(長門守)に充てて、三成ら奉行衆の連署状が出されている」ことが記されてい…
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石田三成の実像2183 中野等氏「石田三成伝」94 朝鮮半島からの撤兵を見届けて上方へ

中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、朝鮮半島からの日本軍の撤兵について、次のように記されています。  「朝鮮に渡っていた諸将は、次々に釜山へ集結した。小西行長の救出に成功した島津義弘・忠恒・立花宗茂らの軍勢も、11月下旬には釜山に到着し、博多への帰途に就く。12月10日には島津勢が、翌11日には小西行長や寺沢正成も博多へ帰…
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石田三成の実像2182 中野等氏「石田三成伝」93 家臣の八十島助左衛門と島津

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)11月23日付で三成が島津家中に充てて出した書状が取り上げられていますが、その書状には、翌24日付の三成家臣の八十島助左衛門尉書状が添えられていることも記されています。そのこと及び、博多津中からの陳情が三成のもとに来た時に、八十島を通じて回答を行なっている…
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石田三成の実像2181 中野等氏「石田三成伝」92  博多で撤兵の差配以外の仕事もこなす

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死後、朝鮮半島からの撤兵を差配するために博多に赴いた三成が、それ以外の仕事もこなしていたことが記されています。  すなわち、「同時に、三成は博多を拠点にしつつ、西国の諸地域にも、さまざまな指示を下していく。たとえば、膝下の博多津中に対しては、改めて津内が領主権力の及ばない地域であるこ…
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石田三成の実像2180 中野等氏「石田三成伝」91 朝鮮半島からの撤兵をめぐって

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死を受けて博多まで朝鮮半島からの撤兵の差配に赴いた三成の行動について、次のように記されています。  すなわち、「慶長3年(1598)11月2日には、朝鮮に渡海していた徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島に迎えている。朝鮮の詳細を得た三成は、浅野長政と連署して、同じ11月2日付で、在朝鮮の諸…
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石田三成の実像2179 中野等氏「石田三成伝」90  安国寺恵瓊、東福寺住持に

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、慶長3年(1598)9月10日付で西笑承兌(さいしょうしょうたい)が三成に安国寺恵瓊の東福寺入院に関する書状を出していることが記されています。その書状について、次のように解説されています。  「恵瓊は慶長の役でも朝鮮に渡海していたが、秀吉は生前、恵瓊が日本に戻ればただちに東福寺住持に推すこ…
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石田三成の実像2177  中野等氏「石田三成伝」 88 撤兵を差配する3人は旧小早川領の代官

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)10月19日付の周防富田で博多商人の神屋宗湛に充てた書状が取り上げられていますが、その中に次のような記載があります。  「遠路ながら懇ろなお気持ちとして美醂酒二樽をお贈り頂き、嬉しく思う。ところでそなたの屋敷は宰相殿(毛利秀元)の宿所に充てられるので、い…
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石田三成の実像2176  中野等氏「石田三成伝」87 10名による集団指導体制の確認

中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、秀吉の死後直後に、家康と五奉行の間に不和があったことが記されていましたが、「安国寺恵瓊を用いた毛利輝元の仲介が効を奏したものか、この際の緊張関係は九月初旬にいったんは収拾をみせる」とあり、そのことを示すものとして、9月3日付で五人の「大老」と奉行衆五名との間に取り交わされた…
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石田三成の実像2174 中野等氏「石田三成伝」86 内藤周竹書状・輝元と奉行衆のズレ

中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも、水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)と同様、秀吉の死後の9月2日付で毛利家臣の内藤周竹(隆春)が内藤元家へ宛てた書状が取り上げられています。  その中に、「五人の奉行らと家康との関係が不和であるとのことだ…
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石田三成の実像2170 詫間直樹氏「内裏と仙洞御所の変遷」 秀吉の内裏・仙洞御所造営

 フェイスブックの方で、21日に「京都府立京都学・歴彩館」で行われた「禁裏・公家文化講座」の内容紹介を少しずつしています。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  まず宮内庁京都事務所長の詫間直樹氏の講演「内裏と仙洞御所の変遷」、次に東京大学大学院工学研究科教授の藤井恵介氏…
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三成の実像2106 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」84

   写真は桃山御陵(明治天皇陵)の敷地の中にある治部池を柵越しに昨日撮ったものです。写真では、木の向こう側にある池ははっきり見えませんが、肉眼でははっきり確認できます(オンライン三成会編『三成伝説』【サンライズ出版】にも掲載しています)。柵の向こう側は、かつては伏見城の城内であり、治部池は堀跡です。北側(写真では左側)には、長束大蔵郭…
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三成の実像2098 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」1 秀吉遺品の初花肩衝

 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)を読みました。大西氏には、これまでもご著書や玉稿をいただき、いろいろとお世話になっています。「宇喜多秀家」は写真が多数掲載され、一般読者に向けて内容的にもわかりやすく、宇喜多秀家の事績を知るにはふさわしいものになっています。  同書では、宇喜多秀家が、これまで考えられて…
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三成の実像2097 真如堂の海北友松の墓 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記」81

  写真は京都の真如堂にある海北友松の墓(向かって右側)を一昨日撮ったものです。左隣は信長の重臣だった斎藤利三の墓です。三成と海北友松とは親しい関係であり、慶長3年(1598)5月29日から7月15日にかけて友松は、三成の九州下向に同行しています。秀吉が亡くなったのは8月18日ですから、その直前のことです。拙ブログで前述したように、その…
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京都探訪288 金地院1 方広寺鐘銘事件の仕掛け人は崇伝ではない・伏見城の遺構の方丈

 最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方ばご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  4月28日は、京都の「瓢亭」で松花堂弁当を食べた後、南禅寺の塔頭の…
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「長浜城跡・城下町跡」現地見学会1 秀勝の墓・正方形の町の区画・長方形も・京都の町との類似性

   写真は長浜の妙法寺にある羽柴秀勝とされる人物の墓を22日に撮ったものです。長浜市長浜城歴史博物館長の太田浩司氏の案内・解説による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会で、まず曳山博物館のところから南下して妙法寺を訪ね、墓にお参りしたことは拙ブログで前述しました。秀勝は石松丸と呼ばれ、幼くして亡くなっていますが、母は一説には秀吉の側室の…
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京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」2 豊後橋近くの太閤堤跡・向島城の遺構を示す段差 

 NHKで放送された「ブラタモリ 伏見」では、木幡山伏見城跡をタモリさんらは梅林秀行氏の案内によって歩いていましたが、梅林氏の「京都の凸凹を歩く」(青幻舎)では、残念ながら木幡山伏見城は取り上げられていません。  「巨椋池」の章で、秀吉がすべての道を伏見に通じるようにした巨大工事の痕跡が取り上げられています。当時は伏見城の南に大きな巨…
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京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」1 指月伏見城跡の高低差が示すもの

 倒壊した伏見城は指月の丘に建っており、秀吉はすぐさま木幡山に新たな伏見城を建てますが、「真田丸」では、地震が起こる前の時点で、昌幸が木幡山に目を付け、ここに出城をこしらえたら、伏見城を落とせると言っていました。ここのあたりはフィクションだということは拙ブログ記事で前に述べましたが、確かに木幡山は指月の丘よりは高く、木幡山から指月の丘を…
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