テーマ:京都探訪

石田三成の実像2667 半年ぶりの伏見城跡巡り

18日に、大阪府立大手前高校で同僚だった人と、伏見城跡などを巡ってきました。3時間、途中休憩もなく案内しましたが、よく付き合っていただきました。この日のことは、フェイスブックの方でも、写真入りで記しています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大手筋通の店でま…
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三成の実像2425 京都探訪289 太閤堤跡歴史公園の事業計画

フェイスブック(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem)でも記しましたが、宇治市で、今、大きな問題となっているのは、「太閤堤跡歴史公園」の建設です。88億円という巨額な費用がかかり、2業者の応募の末、業者は決まったものの、審査も不透明で、批判を浴びています。  歴…
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石田三成の実像2188 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」6

 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、前述したように、慶長4年(1599)1月中旬に、家康と伊達政宗の間の縁辺問題が浮上したことが取り上げられていますが、それに関して「慶長年中ト斎記」に、「三成が徳川邸を襲撃するという風聞があり、徳川邸では備えを…
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石田三成の実像2186 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」4 寺沢正成書状

 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の多数派工作に関して、慶長4年(1599)1月5日付の島津忠恒・立花宗茂・小早川秀包・高橋直次・筑紫広門に宛てた寺沢正成(広高)書状が取り上げられています。この書状は、「家康が催す茶会への参加を促し、『明…
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石田三成の実像2185 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」3 家康の多数派工作

 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、朝鮮半島からの撤兵の差配のために三成が博多に赴いていた間に行っていた、家康の多数派工作について記されています。  家康が屋敷を訪ねた大名は、慶長3年(1598)11月24日に織田信包、25日に増田長盛、26…
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石田三成の実像2184 中野等氏「石田三成伝」95 秀頼のもとで大坂城の勤番

中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長3年(1598)12月24日に博多から大坂に戻った三成が、「早速中央の政務に復帰し」、「12月26日付で他の奉行衆と五名連署で園城寺(三井寺)充て寺領充行状(あてがいじょう)を発して」おり、翌年「正月5日付で関一政(長門守)に充てて、三成ら奉行衆の連署状が出されている」ことが記されてい…
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石田三成の実像2183 中野等氏「石田三成伝」94 朝鮮半島からの撤兵を見届けて上方へ

中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、朝鮮半島からの日本軍の撤兵について、次のように記されています。  「朝鮮に渡っていた諸将は、次々に釜山へ集結した。小西行長の救出に成功した島津義弘・忠恒・立花宗茂らの軍勢も、11月下旬には釜山に到着し、博多への帰途に就く。12月10日には島津勢が、翌11日には小西行長や寺沢正成も博多へ帰…
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石田三成の実像2182 中野等氏「石田三成伝」93 家臣の八十島助左衛門と島津

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)11月23日付で三成が島津家中に充てて出した書状が取り上げられていますが、その書状には、翌24日付の三成家臣の八十島助左衛門尉書状が添えられていることも記されています。そのこと及び、博多津中からの陳情が三成のもとに来た時に、八十島を通じて回答を行なっている…
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石田三成の実像2181 中野等氏「石田三成伝」92  博多で撤兵の差配以外の仕事もこなす

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死後、朝鮮半島からの撤兵を差配するために博多に赴いた三成が、それ以外の仕事もこなしていたことが記されています。  すなわち、「同時に、三成は博多を拠点にしつつ、西国の諸地域にも、さまざまな指示を下していく。たとえば、膝下の博多津中に対しては、改めて津内が領主権力の及ばない地域であるこ…
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石田三成の実像2180 中野等氏「石田三成伝」91 朝鮮半島からの撤兵をめぐって

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死を受けて博多まで朝鮮半島からの撤兵の差配に赴いた三成の行動について、次のように記されています。  すなわち、「慶長3年(1598)11月2日には、朝鮮に渡海していた徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島に迎えている。朝鮮の詳細を得た三成は、浅野長政と連署して、同じ11月2日付で、在朝鮮の諸…
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石田三成の実像2179 中野等氏「石田三成伝」90  安国寺恵瓊、東福寺住持に

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、慶長3年(1598)9月10日付で西笑承兌(さいしょうしょうたい)が三成に安国寺恵瓊の東福寺入院に関する書状を出していることが記されています。その書状について、次のように解説されています。  「恵瓊は慶長の役でも朝鮮に渡海していたが、秀吉は生前、恵瓊が日本に戻ればただちに東福寺住持に推すこ…
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石田三成の実像2177  中野等氏「石田三成伝」 88 撤兵を差配する3人は旧小早川領の代官

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)10月19日付の周防富田で博多商人の神屋宗湛に充てた書状が取り上げられていますが、その中に次のような記載があります。  「遠路ながら懇ろなお気持ちとして美醂酒二樽をお贈り頂き、嬉しく思う。ところでそなたの屋敷は宰相殿(毛利秀元)の宿所に充てられるので、い…
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石田三成の実像2176  中野等氏「石田三成伝」87 10名による集団指導体制の確認

中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、秀吉の死後直後に、家康と五奉行の間に不和があったことが記されていましたが、「安国寺恵瓊を用いた毛利輝元の仲介が効を奏したものか、この際の緊張関係は九月初旬にいったんは収拾をみせる」とあり、そのことを示すものとして、9月3日付で五人の「大老」と奉行衆五名との間に取り交わされた…
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石田三成の実像2174 中野等氏「石田三成伝」86 内藤周竹書状・輝元と奉行衆のズレ

中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも、水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)と同様、秀吉の死後の9月2日付で毛利家臣の内藤周竹(隆春)が内藤元家へ宛てた書状が取り上げられています。  その中に、「五人の奉行らと家康との関係が不和であるとのことだ…
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石田三成の実像2170 詫間直樹氏「内裏と仙洞御所の変遷」 秀吉の内裏・仙洞御所造営

 フェイスブックの方で、21日に「京都府立京都学・歴彩館」で行われた「禁裏・公家文化講座」の内容紹介を少しずつしています。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  まず宮内庁京都事務所長の詫間直樹氏の講演「内裏と仙洞御所の変遷」、次に東京大学大学院工学研究科教授の藤井恵介氏…
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三成の実像2106 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」84

   写真は桃山御陵(明治天皇陵)の敷地の中にある治部池を柵越しに昨日撮ったものです。写真では、木の向こう側にある池ははっきり見えませんが、肉眼でははっきり確認できます(オンライン三成会編『三成伝説』【サンライズ出版】にも掲載しています)。柵の向こう側は、かつては伏見城の城内であり、治部池は堀跡です。北側(写真では左側)には、長束大蔵郭…
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三成の実像2098 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」1 秀吉遺品の初花肩衝

 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)を読みました。大西氏には、これまでもご著書や玉稿をいただき、いろいろとお世話になっています。「宇喜多秀家」は写真が多数掲載され、一般読者に向けて内容的にもわかりやすく、宇喜多秀家の事績を知るにはふさわしいものになっています。  同書では、宇喜多秀家が、これまで考えられて…
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三成の実像2097 真如堂の海北友松の墓 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記」81

  写真は京都の真如堂にある海北友松の墓(向かって右側)を一昨日撮ったものです。左隣は信長の重臣だった斎藤利三の墓です。三成と海北友松とは親しい関係であり、慶長3年(1598)5月29日から7月15日にかけて友松は、三成の九州下向に同行しています。秀吉が亡くなったのは8月18日ですから、その直前のことです。拙ブログで前述したように、その…
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京都探訪288 金地院1 方広寺鐘銘事件の仕掛け人は崇伝ではない・伏見城の遺構の方丈

 最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方ばご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  4月28日は、京都の「瓢亭」で松花堂弁当を食べた後、南禅寺の塔頭の…
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「長浜城跡・城下町跡」現地見学会1 秀勝の墓・正方形の町の区画・長方形も・京都の町との類似性

   写真は長浜の妙法寺にある羽柴秀勝とされる人物の墓を22日に撮ったものです。長浜市長浜城歴史博物館長の太田浩司氏の案内・解説による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会で、まず曳山博物館のところから南下して妙法寺を訪ね、墓にお参りしたことは拙ブログで前述しました。秀勝は石松丸と呼ばれ、幼くして亡くなっていますが、母は一説には秀吉の側室の…
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京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」2 豊後橋近くの太閤堤跡・向島城の遺構を示す段差 

 NHKで放送された「ブラタモリ 伏見」では、木幡山伏見城跡をタモリさんらは梅林秀行氏の案内によって歩いていましたが、梅林氏の「京都の凸凹を歩く」(青幻舎)では、残念ながら木幡山伏見城は取り上げられていません。  「巨椋池」の章で、秀吉がすべての道を伏見に通じるようにした巨大工事の痕跡が取り上げられています。当時は伏見城の南に大きな巨…
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京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」1 指月伏見城跡の高低差が示すもの

 倒壊した伏見城は指月の丘に建っており、秀吉はすぐさま木幡山に新たな伏見城を建てますが、「真田丸」では、地震が起こる前の時点で、昌幸が木幡山に目を付け、ここに出城をこしらえたら、伏見城を落とせると言っていました。ここのあたりはフィクションだということは拙ブログ記事で前に述べましたが、確かに木幡山は指月の丘よりは高く、木幡山から指月の丘を…
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京都探訪286 真如堂の菩提樹 大学時代によく集まった下宿は今はなし 馴染みの吉田山から京大へ

写真は真如堂の菩提樹の花を、先月の今日(6月8日)に撮ったものです。菩提樹が4日に開花したというので、妻と見に行きました。  真如堂は大学時代、文学部の友達が下宿していたので、よく訪ね、何人かで集まって夜遅くまで雑談をしたり議論をしたりしました。大学生活で一番思い出に残っているのは、友達と夜を徹して酒を飲みながら、いろいろなことを…
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石田三成の実像1629 「ブラタモリ 伏見」 伏見は首都だったということを巡って

 NHKの番組「ブラタモリ」で伏見を回っていましたが、大半は自分も何度も歩いている馴染みのあるところだったものの、城下町があったあたりの道の段差には自分自身、目をとめていなかったので、いろいろ勉強になりました。  「ブラタモリ」では、伏見は日本の首都だったという題で、伏見を実際に歩くことによって、秀吉がなぜ伏見を首都にしたのか、どのよ…
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京都探訪285 「禅ー心をかたちにー」展2 NHKスぺシャル「若冲 天才絵師の謎に迫る」・臨済義玄像

 写真は京都国立博物館の平成知新館で開かれている「禅ー心をかたちにー」展の掲示オブジェを4月15日に撮ったものです。2日付の拙ブログ記事に貼付した写真のオブジェの裏側に当たります。描かれているのは、伊藤若冲の「竹図」です。鹿苑寺の大書院の障壁画の一部であり、展覧会の最後のコーナー「禅文化の広がり」の中で展示されていました。  若冲の絵…
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京都探訪284 石田三成の実像1607 「禅ー心をかたちにー」展1 三成と交流が深かった高僧の像も

 写真は京都国立博物館の平成知新館で行われている展覧会「禅ー心をかたちにー」の掲示用オブジェを15日に撮ったものです。書かれている絵は、狩野山楽の筆になる「龍虎図屏風」の「虎図」です。妻と共に見て来ましたが、結構賑わっていました。三階から二階、一階と見て回りましたが、その量の多さと質の高さに圧倒されました。時期によって、展示物の入れ替え…
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京都探訪283 日本文学探訪123 平八茶屋と漱石3 「門」における描写・拙文「漱石と白百合」3

 写真は平八茶屋を庭のところから昨年4月に撮ったものです。昼食を取ったのは1階の広間であり、ガラス戸越しにテープルが見えています。2階は和室になっているものと思われます。広間のすぐ向こうに高野川が流れており、川の流れを見ながら食事を楽しむことができました。  朝日新聞に昨月まで連載されていた夏目漱石の「門」にも、平八茶屋が出ていました…
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京都探訪282 日本文学探訪122 平八茶屋と漱石2 明治40年の日記 拙文「漱石と白百合」2

 写真は平八茶屋の入口を昨年4月に撮ったものです。古式ゆかしき風情のある入口です。  夏目漱石の小説「虞美人草」では、最初男二人が比叡山に登ろうとして、その険しさに「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだほうがよかった」と言う場面があります。  角川書店版「夏目漱石全集4 虞美人草」に明治40年の「日記」の一部が掲載されていますが、「4月…
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京都探訪281 日本文学探訪121 平八茶屋と漱石1 麦飯とろろ膳 拙文「漱石と白百合」1

写真は平八茶屋の麦飯とろろ膳を昨年4月24日に撮ったものです。妻と一緒にここで昼食を取りに行きました(翌日が妻の誕生日であり、その祝いも兼ねてのことです)。料理が2段重ねになっていますが、写真では横に並べています。料理に舌鼓をうった後、最後に麦飯にとろろ汁をかけて食べます。  平八茶屋までは地下鉄松ヶ崎駅から歩きましたが、20分…
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京都探訪280 石田三成の実像1573 芳春院の特別公開2 「呑湖閣」に春屋宗圓像・近衛文麿も下宿

 写真は大徳寺の芳春院の山門の横に建っていた特別公開の案内看板を撮ったものです。看板の上部には「呑湖閣(どんこかく)」の写真が掲載されています。「呑湖閣」も撮影禁止だったので、この看板で代用しました。  趣きのある建物であり、「飽雲池(ほううんち)」と呼ばれる池のそばに建っており、「呑湖閣」とは「打月橋(だげつきょう)」という橋でつ…
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