テーマ:大河ドラマ

石田三成の実像2680  大河ドラマ「葵 徳川三代」6 家康暗殺計画

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、慶長4年9月、徳川家康が大坂城に入城した時、家康暗殺計画があったとして、前田利長や大野治長に疑いをかけるものの、それは家康自身が仕組んだ謀略であったという捉え方がされていました。利長が計画者とされたのは、利長と三成と通じていると考えられたからで、大野治長は淀殿と密通しているとの噂があったからだという描き…
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大河ドラマ探訪453 「真田丸」120 「ブラタモリ」・太田浩司氏の講座第3回1 「幸村」に改名は嘘

 大河ドラマ「真田丸」第45回「完封」は、真田丸攻防戦が描かれ、初めて信繁(幸村)が主役らしい、戦いでの活躍を見せていました。  「真田丸」では、真田丸の絵図について、従来通りの半円形のものが使われていました。しかし、千田嘉博氏などの研究によって、真田丸は半円形ではなく方形だということが確かめられ、昨年11年に、真田丸の中心地と推定…
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石田三成の実像1771 水野伍貴氏の講演「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」6 個別撃破が家康の策

 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、慶長5年の家康の上杉攻めは、三成を誘うためだったという従来の説が否定されていました。その説とは、家康が上方を留守にすれば、三成が挙兵するから、この際、敵対勢力をまとめて掃討するというもので、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)などでもそのような描き方がされています。  …
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石田三成の実像1770 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」5 三成襲撃事件2

 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件に関して、「三河物語」には、「最後には石田治部少輔(三成)一人に責任をかけて、寄り合って治部(三成)に腹を切らせようとした」という記述があることが取り上げられていました。  これと同様の記述が、「1599年度日本年報」にもあることも示されてい…
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石田三成の実像1768 水野伍貴氏の講演「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」3 三つの勢力

石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、秀吉死後の勢力関係について、三つの勢力に分けて説明されていました。  まず、一つ目の勢力として、石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の四奉行と毛利輝元の勢力、彼らは秀吉死後10日後の8月28日に盟約を結びました。  二つ目の勢力は徳川家康であり、細川忠…
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石田三成の実像1765 太田浩司氏の「真田丸」講座・妙源寺の法要・石田三成祭・水野伍貴氏の講演

写真は長浜市石田町で行われた三成の法要の直前の様子を撮ったものです。写真に向かって右側に石田一族供養塔がありますが、そばの紅葉が鮮やかでした。   4日から彦根に2泊して、三成の法要や関連イベントに参加してきました。当初は4日の昼頃に彦根入りして、三成の居城であった佐和山城に登る予定でしたが、初めて公開されている京都の聖ハリト…
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石田三成の実像1764 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」1 布谷陽子氏が指摘した諸点

 白峰旬氏は三成が挙兵し、「内府ちかひの条々」が出されて以降、関ヶ原の戦いまで石田・毛利連合政権が成立していたと主張されており、その見解については「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で初めて知り、拙ブログ記事でも紹介しましたが、白峰氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)で、その発給文書…
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石田三成の実像1754大河ドラマ探訪450「真田丸」117「真田丸」展7 「関ヶ原合戦図屏風」4

 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展に、展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、拙ブログ記事でも取り上げているように、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面について取り上げ解説されており、その続きです。  関…
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石田三成の実像1753大河ドラマ探訪449「真田丸」116 「真田丸」展7 「関ヶ原合戦図屏風」3

 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展に、展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、拙ブログ記事でも取り上げているように、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面について取り上げ解説されており、その続きです。  杭…
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石田三成の実像1752 大河ドラマ探訪448「真田丸」115 「真田丸」展5 「関ヶ原合戦図屏風」2

 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展で展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、江戸時代初めに描かれているだけに、実際に戦いが行われた時とはあまり年数が経っていません。他の図屏風は、江戸時代後期に描かれていますから、決定的に時期が異なっています。それだけに、合戦の実相を後世のものより正しく伝えていると云えますが…
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石田三成の実像1751大河ドラマ探訪447「真田丸」114 「真田丸」展4 津軽「関ヶ原合戦図屏風」

 大阪歴史博物館で開催されている「真田丸」展で、同館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」が展示されていましたが、家康の養女・満天姫が津軽藩二代藩主の信枚に嫁ぐ際、持参したものです。すでに信枚の正室であった三成の三女・辰姫に見せびらかすような行為ですが、辰姫は大舘に暮らしていましたから、この図屏風を見る機会はなかったのではないでしょうか。満天姫は信…
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石田三成の実像1750  関ヶ原合戦祭 山本耕史さんのトークイベント3 馬上姿を追って・西軍勝利

 写真は関ヶ原合戦祭2016の武者行列の際の、三成に扮している山本耕史さんの馬上姿を16日に撮ったものです。なにしろ大変な人出であり、最前列に回り込めませんでしたから、決定的ないい写真が撮れませんでした。正面から撮れたと思ったものも、逆光で山本さんの姿が黒く写っていたり、ファンサービスで馬でぐるりと回っているところで、シャッターを押し、…
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石田三成の実像1749  関ヶ原合戦祭 山本耕史さんのトークイベント2 三成の極端な台詞

  写真は15日に行なわれた関ヶ原合戦祭の山本耕史さんのトークイベントの様子を撮ったものです。司会者は歴ドルの小栗さくらさんです。  小栗さんが、ネットによる「真田丸」の好きな人物ランキングで、第一回でも第二回でも石田三成が第一位に選ばれていると明かしていました。二位、三位は直江兼続、真田信幸(第一回と第二回では逆の結果)でした。山本…
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石田三成の実像1748 関ヶ原合戦祭 山本耕史さんのトークイベント1 三成の扮装で登場・武者行列も

写真は関ヶ原合戦祭2016の際の、石田三成隊の一行を撮ったものです。中央に座っているのは、「真田丸」で三成を演じた山本耕史さんです。写真が鮮明でないのが残念ですが、写真を撮るためにずらりと並んでいたので、一度しか写せませんでした。  この日は、山本さんのトークイベントが朝10時15分から笹尾山であったので、前夜は大垣に泊まり、9時2…
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石田三成の実像1745 白峰旬氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」2 笹尾山布陣は俗説

 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、慶長5年9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状をめぐって、藤本氏は「石田軍が布陣したのは戦場の北寄りの笹尾山付近」と記されていますが、白峰氏はそのことは「一次史料では全く…
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大河ドラマ探訪446「真田丸」113 幸村に改名?片桐且元が信繁に入城を促す?

 大河ドラマ「真田丸」第40回「幸村」は、信繁が流されていた九度山に、明石全登、さらには片桐且元が現れて、大坂入城を促し、信繁は最初は断るものの、きりに勧められ、秀吉をはじめ、今まで関わってきた人々の姿(そのなかには三成や信繁の姿もありました)や言葉を思い出して、出陣を決意し、「幸村」という名を新たに選ぶという展開になっていました。 …
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大河ドラマ探訪445「真田丸」112 「真田丸」展3 信繁が代筆した昌幸書状・金を催促する昌幸書状

 大阪歴史博物館で開かれている「真田展」の図録には、信繁が代筆した、信之宛の昌幸書状が掲載されています。私が見たのは2日であり、この書状の展示は5日からで、見ることはできませんでしたが。年不詳の4月27日付のもので、真田宝物館が所蔵しています。図録には、この書状について、次のように解説されています。  「真田真幸最晩年、慶長16年頃の…
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大河ドラマ探訪444「真田丸」111 信繁は第一次上田合戦に参戦していたという寺島隆史氏の見解

 大河ドラマ「真田丸」では、第一次上田合戦の際、上杉氏の人質になっていた信繁が、上田に戻って、昌幸・信幸と共に家康相手に戦い、味方を勝利に導く場面が描かれていました。信繁がこの戦いに参加していたということについての否定的な見解を、4月20日付の拙ブログ記事で、橋場日月氏の「知れば知るほど面白い 人物歴史丸ごとガイド 真田幸村」の中の記述…
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大河ドラマ探訪443「真田丸」110 「真田丸」展2 毛利勝永の陣羽織・信繁の采配、薙刀、兜

  「真田丸」展は東京、上田、大阪と巡回されて開かれていますが、大阪会場限定の展示品として、講演会で紹介されたもの以外にもいろいろあります。   その中でも一番目についたのは、毛利勝永の形見の品と伝わる陣羽織です。緋色で、背中には大の字、下には金の渦巻模様があしらわれています。  この陣羽織について、「真田丸」展の図録には、次のよう…
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石田三成の実像1744 大河ドラマ探訪442「真田丸」109 三谷幸喜氏が片岡愛之助さんにお詫び

 9月29日付の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活796」の「次は砂漠かジャングルで」の中で、大河ドラマ「真田丸」で関ヶ原の戦いがほとんど描かれなかったことについて、述べられています。  「主人公の真田信繁が見たり聞いたりした事以外は、極力描かない。それが僕の決めたルールです」  「小早川秀秋の裏切りに怒る石田三成の姿も…
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石田三成の実像1743 大河ドラマ探訪441「真田丸」108 信幸が改名したのは家康の命令?

 大河ドラマ「真田丸」では、真田信幸が、関ヶ原の戦いの後、家康に昌幸の「幸」の字を捨てるように言われ、「信之」に名前を改めるという描き方がされていました。  この点について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで実名を『信幸』と称し、翌6年以降に『信之』と改名する」と記されています。…
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石田三成の実像1742大河ドラマ探訪440「真田丸」107 「真田丸」展1 昌幸ら宛の三成書状

 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展で、三成関係のものが何点か展示されていました。関ヶ原関連のものが主であり、慶長5年8月5日付真田昌幸・信幸・信繁宛の三成書状、前田幹雄氏が描いた三成の肖像画、内府ちがいの条々(三成の名は記されていませんが、原案を作ったのは三成だと考えています)。  この三成書状については、拙ブログ記事で何度も…
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三成の実像1741大河ドラマ探訪439「真田丸」106 木土博成氏の講演3 折紙書状・首が落ちる地蔵

 大阪歴史博物館で2日に開かれた、木土博成氏の講演「真田丸」で、年不詳の7月28日付の西山左京宛の真田信之書状が取り上げられ、原文、釈文が史料に載っています。特に原文は用紙1枚に印刷され、上下2段に書かれた書状を真ん中で折って、さらにそれをいくつかに折って、宛名が上に来るようにして、当時の折紙書状がどういうものか、具体的に説明されていま…
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大河ドラマ探訪438「真田丸」105  木土博成氏の講演「真田丸」2 焼酎を求める信繁書状

 2日に大阪歴史博物館で学芸員の木土博成氏による講演「真田丸」が開かれましたが、高野山の蓮華定院所蔵の年不詳の6月23日付の、左京宛の信繁書状が取り上げられていました。この書状は、大河ドラマ「真田丸」第39回「歳月」の「真田丸紀行」でも少し紹介されていましたが、「信繁が焼酎を求めた書状からは、仕送りに頼っていた暮らしがうかがえます」と説…
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大河ドラマ探訪437「真田丸」104 大阪歴史博物館での木土博成氏の講演1 大坂夏の陣図屏風の信繁

 2日に大阪歴史博物館で学芸員の木土博成氏による講演「真田丸」が開かれ、抽選で当たったので行ってきました。大阪府教職員互助組合が主催するもので、木土氏の話によると、2倍近い倍率だったそうです。それで選ばれたのはラッキーでした。もっとも、「真田丸」で昌幸を演じた草刈正雄さんのトークイベントの際は、10倍以上の応募があったそうです。  講…
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大河ドラマ探訪436「真田丸」103信繁と秀次の娘との子の「御田の方」3真田家再興のために妙慶寺建立

 佐竹義宣の弟の宣家は亀田藩の藩主になりますが、その経緯について、佐々木裕三氏の「顕性院・御田の方」書について次のように記されています。  「数年後、佐竹家に家督継承問題が発生。秀忠の指名により亀田藩藩主の岩城義隆(佐竹義宣の甥)が久保田藩藩主となる。空席となった亀田藩の藩主を重隆が勤めることとなり、『直』の夫宣家が番代となり亀田藩を…
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大河ドラマ探訪435「真田丸」102 信繁と秀次の娘の子の「御田の方」2・「真田丸」では描かれず

 真田信繁と秀次の娘(隆清院)の間に生まれた「直」(御田の方)ですが、佐々木裕三氏の「顕性院・御田の方」の「御田の方 年譜」の中で、慶長9年(1604)に生まれたと記されています。とすれば、当然、九度山に流された信繁に一緒に暮らしたことになります。昨夜放送された大河ドラマ「真田丸」第39回で、隆清院(「真田丸」では「たか」)が大坂の陣の…
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石田三成の実像1740 大河ドラマ探訪434「真田丸」101 信繁と秀次の娘の子の「御田の方」1

 「真田丸」では、真田信繁は秀次の娘を側室にしたものの、ルソン助左衛門を通じてルソンに逃すという描き方がされ、その後の姿については今のところ描かれていません。  実際は、信繁と秀次の娘の間には「おたあ」という女子が生まれ、彼女は後に佐竹義宣の弟の宣家に嫁いでいます。このことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも記しま…
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石田三成の実像1736 昌幸の田んぼアート 大河ドラマ探訪433「真田丸」100 清正は暗殺か?

 写真は「真田丸」の草刈正雄さん演じる真田昌幸を表した「田んぼアート」を19日に撮ったものです。写真に向かって左側に、山本耕史さん演じる石田三成の「田んぼアート」があります。むろん、われわれは上の展望台から見下ろしているのですが、上から見てきちんとした武将の姿にするのには、相当高度なレベルが必要とされるのではないでしょうか。  「真田…
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石田三成の実像1728 旅行記71東北3 田んぼアート 大河ドラマ探訪432「真田丸」99 三成最期

   写真は青森県南津軽郡田舎館村で開かれている、大河ドラマ「真田丸」で山本耕史さん演じる三成の姿を表した「田んぼアート」を昨日撮ったものです。真田昌幸の「田んぼアート」も隣に作られていました。  オンライン三成会の有志の人々と17日に秋田、18日・19日に弘前三成や関連人物の遺跡などを訪ねましたが、この「田んぼアート」もその一つです…
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