テーマ:石田三成

石田三成の実像3188「関ヶ原大乱、本当の勝者」173 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」12…

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、「なぜ『関ヶ原』合戦という呼称だけが公称として残ったのか?」という点について、次のように考察されています。  「家康が9月15日付で伊達政宗に出した書状(『徳川家康文書の研究』)によれば、石田方の宇喜多秀家、島津義弘、小…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3187「関ヶ原大乱、本当の勝者」172 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」11…

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、藤井讓治氏が関ヶ原の戦いの戦場名の表記について検討した結果、次のようにまとめられていることが紹介されています。 「(1)『山中』は、実際に東軍と西軍が激突した地である。  (2)島津義弘が『関か原之合戦』としたのは、島津…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3186  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」12「8月12日付伊達政…

  白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」の中で、「8月12日付伊達政宗宛徳川家康書状」の内容解釈がされていますが、「先頃、家康から伊達政宗に申し入れたように、上方(への出陣)を止めて、会津表(への出陣)を家康は申し付けるべき覚悟である、としている」点について、これが「家康の本心なのか、伊達政宗への言い訳であ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3185「関ヶ原大乱、本当の勝者」171 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」10…

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、追而書(おってがき)の中で、「猶々(なおなお)、このように述べたところに津小平(津田秀政)方より書状をくれて、家康は今日(9月20日)大津へ来たとのことを言ってきたので、主水…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3184「関ヶ原大乱、本当の勝者」170 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」9 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、伊達政宗が上杉景勝方の白石城を攻略したことについて述べた部分について、「白石とかいう城は景勝(方)が守備していたが、『此方』(こちら)へ取られて、政宗が入城したということであ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3183「関ヶ原大乱、本当の勝者」169 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」8 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、「宇喜多秀家は討死したとの風聞である。(このことは)異儀(異存)がない、とのことを(前久のところへ来た者が)言った」と現代語訳されている部分について次のように解説されています…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3182  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」11 「7月19日付福島…

 白峰旬氏は、一次史料の検討から、小山評定はなく、上杉攻めの中止は家康自身が宇都宮で決定したという見解を出されており、「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」の中で、「7月26日付京極高次宛徳川家康書状写」の内容について、次のように記されています。  「今日(7月)26日より御人数が西上し、家康もたしかに上洛するので『…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3181 中野等氏の講演「石田三成の遺したもの 秀吉と三成」1 石田三成関係系図から見えてくるもの …

 昨年12月10日の夜に彦根で行われた中野等氏の講演会「石田三成の遺したもの 秀吉と三成」は、本来10月に行なわれる予定でしたが、コロナの影響で12月に延期されました。今回は、秀吉が亡くなる前までの三成の事績を中心に述べられ、没後から関ヶ原の戦いまでの三成の動きについては、来年2月の講演会で語られる予定です。  講演会の資料は、書状な…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

元日は白味噌仕立て、2日はすまし汁の雑煮・石田三成一族の血を引いている可能性がある、母方の石田家本家初代の菩提寺は…

元日はいつも朝昼兼用で白味噌仕立てのお雑煮とおせち料理を食べますが、2日目のお雑煮はすまし汁です。  さて、母方の石田家は分家なのですが、本家は大垣にあります。本家の十代目当主の方からの今年の年賀状に、高齢のため年始の挨拶は今年で最後にさせていただくと書かれていました。母の従兄弟に当たり、95歳です。  本家の家譜に、初代は岐阜県の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3180「関ヶ原大乱、本当の勝者」168 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」7 …

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、「吉川広家は、毛利輝元が取っている知行分をことごとくたまわり置くのであれば家康へ味方に参るべし、との噯【あつか】い([事前の]交渉)であったが、それではあまりの恣(ほしいまま)…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

謹賀新年 旅行記292 講演会出席を兼ねての彦根旅行9 佐和山に登った後、城下町跡の本町筋、大手口あたりを散策・中…

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。  昨年12月の彦根旅行ですが、もう1泊し、12日に佐和山に登りました。10月にも登っていますが、今回はルートを替え、太鼓丸口、千貫井戸、本丸、西の丸を見た後、かもう坂往還道を下って、内堀跡を渡って、l佐和山城の城下町があった時のメインストリートだった本町筋あたり(今は田畑や…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3179  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」10 「7月19日付福島…

 通説では、上杉攻めに向かっていた家康らが、上方での三成・大谷吉継らの挙兵を知って、小山で評定を開き、これからどうすべきか諸将に諮ったところ、福島正則が「三成討つべし」などと言って口火を切ると、諸将らが次々に賛同し、正則ら豊臣系諸将は小山から引き返して西上していったというふうに捉えられてきました。  しかし、白峰旬氏は、一次史料の検討…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3178「関ヶ原大乱、本当の勝者」167 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」6 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、「(この合戦で)上方より出陣の軍勢は5万ばかりであり、(そのうち)4000~5000も討死した、と(近衛前久のところへ来た者が)言った」と現代語訳されている部分について次のよ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3177 利休事件直前の三成の居所 「神屋宗湛日記」の気になる記述

 博多の豪商だった神屋宗湛は石田三成と懇意にしており、「神屋宗湛日記」にもしばしば登場しています。今一番気になっている記述は、天正19年(1591)2月5日の朝の茶会に三成が増田長盛、大谷吉継と出席しているという部分です。千利休切腹事件を三成が画策したということが小説やドラマでよく言われますが、これは冤罪だと考えています。利休が成敗され…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3176 「関ヶ原大乱、本当の勝者」166 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」5…

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の、「(この合戦では)同じ組になっていた者(大谷吉継)に対して小早川秀秋は手を返した(裏切った)ので、その太刀場(戦場)において大谷吉継は討死をして、(小早川秀秋は大谷吉継の軍勢を…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旅行記287 講演会出席を兼ねての彦根旅行4 「石田三成ゆかりの宮」の千代神社・もともと佐和山の麓にあったのを三成…

10日の午後、彦根散策の最後に、千代神社を訪ねました。何年かぶりですが、「石田三成ゆかりの宮」ということが前面に出されていたのに驚く一方、嬉しくも思いました。三成の姿を描いた幟や看板が立ち、御朱印もありました。千代神社は、もともと佐和山の麓にありましたが、三成が佐和山城の城主になった時に、山の上から神社を見下ろすのは畏れ多いということで…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3175 「関ヶ原大乱、本当の勝者」165 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」4…

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されていますが、その続きです。  「(この合戦では家康方の軍勢が)即時に切り立てて(切りかかり)、大利(大勝利)を得た」と現代語訳されている部分について…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旅行記286 講演会出席を兼ねての彦根旅行3 彦根城の馬屋・夢京橋キャッスルロードの「あかり館」、酒「鬼の左近」、…

 彦根城の玄宮園を見た後、開国記念館の前を通り(石田三成と佐和山城に関する展示がされていた時には、何十度となく見学していますが、今回はパスしました、佐和口多聞櫓の中にあります)、すぐ隣の馬屋跡を少し見学しました。L字形になっており、21頭の馬立場(うまたちば)・馬繋場(うまつなぎば)が設置されています。当時は藩主の馬などが常備されていま…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3174  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」9 「7月19日付福島正…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、次に「7月19日付福島正則宛徳川家康書状写」が取り上げられ、その内容解釈がされていますが、その続きです。  この書状の中で、「黒田長政と徳永寿昌が奉者(奏者)として詳しいことを述べる」と記されている部分についての水野伍貴氏の見解が紹介さ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3173「関ヶ原大乱、本当の勝者」164 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」3 …

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されていますが、その続きです。「上方の軍勢4万ばかりがそれぞれに備(を立てて)青野ヵ原にて合戦があった」という記載の「青野ヵ原」という地名について次のように…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旅行記284 講演会出席を兼ねての彦根旅行1 石田三成の実像3172 仙琳寺の石田地蔵・江戸時代に領民が石田一族を…

 10日の夜、彦根で中野等氏の講演会「秀吉と三成」(当初は10月に行われる予定でしたが、コロナの影響で延期されました)があったので、昼頃、彦根入りしました。午後に、三成ゆかりの場所や彦根城の玄宮園などを廻ってきましたが、まず仙琳寺の石田地蔵を久しぶりに訪ねました。門が閉まっているので、2、3度引き返したことがありますが、裏手の鉄道をまた…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3171  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」8「7月19日付福島正則…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、次に「7月19日付福島正則宛徳川家康書状写」が取り上げられ、その内容解釈がされています。  まずこの書状について、「原本は伝存せず、7月9日付、7月19日付、7月24日付の3種が伝存し」、「これまで本多説では7月24日付を採用し、拙説で…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3170「関ヶ原大乱、本当の勝者」163 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」2 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されていますが、その続きです。  「家康は(家康方の諸将の兵力と合わせて)5万ほどにて、手人数をそれぞれ別(々)に備【そなえ】(を立て)られて居陣した」…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3169 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」7「7月29日付大関資増…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その内容解釈を拙ブログで紹介していますが、その続きです。  「駿州ゟ上之御人数ハ何も国々ヘ御返し二候」という記述について、次のように解説されています。  「『駿州』とは駿河国の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3168「関ヶ原大乱、本当の勝者」162 白峰旬氏「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」1 …

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、白峰氏の「終章ー関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」の中で、慶長5年9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状の内容について詳しく検討されています。まず、前日の記述の中で、「いまだ家康は大軍なので路次がつかえ、江州(近江)守山あたりに居陣している」と現代語訳されている部分について、次のよ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3167  白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」6「7月29日付大関資…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その内容解釈を拙ブログで紹介していますが、7月23日に諸将が宇都宮が参集し、家康が上杉討伐の延期と上洛を決定したと指摘されています。それに関連して、次のように記されています。  …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3166「関ヶ原大乱、本当の勝者」161 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」19 戦…

白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の福島正則について、次のように記されています。  「福島正則は先鋒として岐阜城を攻略して弾みをつけ、関ヶ原本戦でも大いに軍功を挙げた。その功は徳川家康に認められ、安芸広島に49万8000石を加増・転封となった。…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3165  白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」5「7月29日付大関資…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その内容解釈を拙ブログで紹介していますが、7月23日に家康が上洛を決定したことを示すものとして、「8月7日付伊達政宗宛徳川家康書状」の「上方三人之奉行相替付而、各相談、為可令上洛」…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3164「関ヶ原大乱、本当の勝者」160 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」18 戦…

 白峰氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の黒田長政について、次のように記されています。  「黒田長政は関ヶ原か合戦前の内応工作だけでなく、実際の戦いでも西軍を相手に軍功を挙げた。父官兵衛も東軍に属して、九州の西軍勢力と戦い勝利を得た。合戦後の論功行…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

石田三成の実像3163  白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」4「7月29日付大関資…

 白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」(『史学論叢』第51号所載)で、まず「7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」が取り上げられ、その内容解釈を、拙ブログで紹介していますが、その続きです。  「結城辺迄罷越候」、追而書の「尚々去廿三日之御状畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候」という記述について次のように…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more