テーマ:石田三成

石田三成の実像2839 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」23 実戦状況に関する白峰氏の考察14 兵科…

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、「兵科別編成部隊の存在」について考察され、次のようなことが指摘されています。  「敵味方ともに兵科別編成の部隊(敵…
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石田三成の実像2838 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」4 「名古屋陣之図」 三成の陣替…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、佐賀県立名護屋城博物館蔵の「名古屋陣之図」が掲載され、次のように解説されています。  「名護屋城の周辺には、大陸出兵に動員された多くの大名たちの陣屋が所在していた。江戸時代以降になると、諸大名の陣屋を考証し、位置関係を描きこんだ絵図が好事家や…
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旅行記222 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行17 興源寺の蜂須賀墓所・正勝は野盗だったというのは作り事

2月24日、徳島市内めぐりの最後に、興源寺の蜂須賀家墓所を訪ねました。徳島城跡の北側を東西に流れているのが助任川ですが、そこを越えて、さらに北に十分程歩いて行ったところにあります。   蜂須賀家の家祖の正勝と松夫妻の墓だけ離れたところにありますが、徳島藩の藩祖である家政や初代藩主の至鎮をはじめとして歴代藩主などの墓は、広い敷地の中に…
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石田三成の実像2837 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」22 実戦状況に関する白峰氏の考察13 勝者…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、「勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異」について論じられていますが、10月27日付の島津義久・島津義弘・島津忠恒宛の立花宗茂書状が取り上げられ、その記載内容から、次のような点が指摘されています…
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自作短歌の周辺37 「歪められた歴史」と題する拙歌・権力者によって文書が改竄されたり廃棄されたりするのは今も変わらず

 森友問題で自殺した近畿財務局の職員の遺書が公開され、文書の改竄を指示したのは佐川元理財局長だったという内容が明らかになりました。隠された真実がようやく表にでてきたという思いがすると共に、自殺した人の苦悩と怒りが生々しく記されおり、心が痛みました。しかし、政府も与党も財務省も、再調査する気は全くなく、逃げの姿勢に終始しています。安倍政権…
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石田三成の実像2836 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」3 肥前名護屋城図屏風

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、佐賀県立名護屋城博物館蔵の「肥前名護屋城図屏風」(複製) が掲載され、次のように解説されています。  「『唐入り』の遂行にあたり、秀吉は壱岐・対馬を挟んで朝鮮半島と隣接する、肥前国名護屋の地を前哨基地に選定した。秀吉の御座所である名護屋城と、…
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石田三成の実像2835 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」21 実戦状況に関する白峰氏の考察12 勝者…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、「勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異」について論じられていますが、まず10月20日付の加藤清正の家臣の吉村橘左衛門尉宛の鍋島直茂書状が取り上げられ、その記載内容について、次のようにまとめられ…
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石田三成の実像2834 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」2 天正20年1月付の高麗国宛豊…

徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、天正20年(1592)1月付の高麗国宛豊臣秀次禁制が掲載され、次のように解説されています。  「天正20年の正月、秀吉によって作成された高麗国宛の禁制。禁制とは、戦地や駐屯地における味方軍勢の狼藉行為を禁ずるものであり、戦国期の国内戦争でも各地…
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石田三成の実像2833 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」20 実戦状況に関する白峰氏の考察11 戦い…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の「小野和泉が申し上げた覚」にある「立花勢が十二備の敵勢のうち九備まで打ち崩した」という記述について、中西氏の疑義が次のように紹介されています。  「柳川合戦では、もっぱら立花側の編纂史料…
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石田三成の実像2832 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」1 天正20年1月付の増田長盛…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、天正20年(1590)1月付の増田長盛宛豊臣秀次朱印状が掲載され、次のように解説されています。  「豊臣秀次は秀吉の姉の子にあたり、秀吉の養子となっていた人物である。本文書が発給される前年の天正19年(1589) に、秀次は秀吉から関白の職と…
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石田三成の実像2831 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」19 実戦状況に関する白峰氏の考察10 圧倒…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのまとめとして、次のように解説されています。 「立花勢におけるそれぞ…
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旅行記216 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行11 三成の子孫の米田文郎氏の元住居・三成の淡路島出身の側…

司馬遼太郎の小説「関ヶ原」の初芽のモデルとされる、淡路島出身の石田三成の側室の子孫の一人に、京大薬学部名誉教授だった米田文郎氏がおられましたが、昨年亡くなられました。その住居であった米田家が、洲本市の本町七丁目センター街に残っていますが、今はNPO法人の管理になっており、地域創生や交流の場所として使われています。先月23日に訪ねた…
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石田三成の実像2830 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」18 まとめとして  三成を否定的に評価…

中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」のまとめとして、次のようなことが挙げられていました。 「後世の逸話評価ではなく、同時代の書状から、三成の実像、その人間力を考察した」  「同時代書状から、三成の『人間力』を肯定的に評価可能な書状を多く指摘することができる」  「ただし今回評価の対象にしたのは、三成自身または三…
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旅行記215 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行10 洲本城4 東の丸・東二の門・武者溜・東一の門 

 洲本城の本丸の東側に東の丸があり、そこを東に進むと、東二の門があり、虎口の石垣が残っています。   そこを通り抜けると、広大な武者溜が広がっています。言葉通り、武士が集合する場所です。その東南に東一の門があり、下に通じるようになっています。  洲本城主であった脇坂安治は、文禄の役の際は、最初は対馬の船奉行に任じられていましたが、朝…
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石田三成の実像2829 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」18 実戦状況に関する白峰氏の考察9  敵は…

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「十時源兵衛が申し上げた覚」の内容についての次のように解説されていま…
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旅行記214 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行9 洲本城3 西の丸までかなりの距離・秀吉の意向で大規模に?

洲本城の本丸を見た後、搦手(からめて)口の階段を下りて西の丸の方に向かいました。  途中、籾蔵跡のところを通りましたが、西の丸までは十分近くかかり、かなり距離がありました。 西の丸も広く平坦で、西側の石垣が残っていました。西の丸のところから天守を眺めると、かなり遠くに見えましたから、その距離が実感できました。この後、本丸の東側に…
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石田三成の実像2828 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」17 文禄の役の悲観的な予見を記した三成…

 中井俊一郎氏の講演会「書状から読み解く三成の人間力」の中で、三成の「武将としての能力」を示す書状として、まず天正18年(1590)6月13日付の浅野長吉宛三成書状が取り上げられていましたが、それに続けて文禄2年(1592)月日未詳の長束正家ら秀吉近臣宛の増田長盛・大谷吉継・石田三成書状が挙げられ、次のように現代語訳されています。  …
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石田三成の実像2827 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」17 実戦状況に関する白峰氏の考察8 立花…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「立花吉左衛門が申し上げた覚」の内容、それについての考察の続きです。 …
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旅行記212 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行7 洲本城1 脇坂安治が総石垣の城に

 洲本市立淡路文化史料館を見た後、車で山上にある洲本城へ行きました。車で大手門跡、馬屋(月見台)のところまで行けます。馬屋のところからも眺望がよくききます。近くには、日月の池もありますが、このあたりが東の丸です。  案内説明版を見ても、城の大きさがわかりますし、実際、東西にひろがる城跡を時間をかけて見て回りました。本丸、天守台から、少…
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石田三成の実像2826 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」16 忍城の水攻めに関する天正18年6月…

中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」の中で、三成の「武将としての能力」を示す書状として、まず天正18年(1590)6月13日付の浅野長吉宛三成書状が取り上げられていますが、次のように現代語訳されています。  「(大意訳)昨日、家臣に丁寧な口上をいただき心得ました。忍城のことは、思惑通り順調に進んでいるので、先発の者…
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旅行記211 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行6 淡路文化史料館・24歳の時の三成書状・直原玉青記念美術館

 洲本市立淡路文化史料館は三階建てで、一階は淡路人形浄瑠璃関係、淡路島の原始古代から近代に至る歴史に関するさまざまな資料、二階には漁具、農具、生活用具、洲本出身の作家である岩野泡鳴関係の資料、高田屋嘉兵衛に関する資料、淡路島の焼き物である珉平焼の作品、淡路島ゆかりの芸術家の作品などが展示されています。三階は岡山県の生まれで淡路島で幼少期…
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石田三成の実像2825 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」16 実戦状況に関する白峰氏の考察7 立花吉…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「小野和泉が申し上げた覚」による合戦当日(10月20日)の状況について…
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旅行記210 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行5 淡路島出身の三成の側室・岸河神社そばの三成供養塔は見当…

 司馬遼太郎の小説「関ヶ原」に石田三成に思いを寄せる初芽という女性が登場していますが(映画では有村架純さんが演じていました)、淡路島の洲本市納地区出身の三成の側室がモデルだという説があります。納地区には石田姓の集落があり、三成の側室の子孫と言われています。淡路島に三成の子孫の方がおられることは、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往…
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石田三成の実像2824 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」15 佐和山領に出した13ヶ条の掟書・今…

 中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」の中で、三成の「組織人としての能力」を示す書状として、文禄5年(1596)3月1日付で佐和山領に出した13ヶ条の掟書、年代不詳(文禄4年以降)8月23日付の今井清右衛門尉宛三成書状が取り上げられていますが、前者については次のように解説されています。  「三成の掟書には、現在の経…
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旅行記209 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行4 変化に富んだ旧徳島城表御殿庭園・夕方に合流

2月22日、徳島城博物館を見学した後、すぐ隣にある旧徳島城表御殿庭園も見てまわりましたが、壮大かつ繊細で見ごたえがありました。博物館のチケットで庭園にも入れました。  庭園は「利休七哲」の一人である上田宗箇が1600年頃に作ったと伝えられる桃山様式のもので、枯山水と池・築山を備える泉水庭が組み合わせられており、阿波特産の「青石」(緑…
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石田三成の実像2823 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」15 実戦状況に関する白峰氏の考察6 小野和…

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「小野和泉が申し上げた覚」による合戦当日(10月20日)の状況につい…
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旅行記208 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行3 徳島城博物館・企画展「ひな人形の世界」・常設展に蜂須賀…

徳島城本丸跡、東二の丸跡、天守跡を見た後、城山を降りて、徳島城公園内にある徳島城博物館を見学しました。雨が降ってきたため、雨が止むるまで館内で二時間近く過ごしました。   徳島城博物館では企画展「ひな人形の世界」が開かれていましたが、立雛がひな人形の源流であったこと、庶民の間で丸い顔の次郎左衛門雛、袖のつっぱった享保雛、新式の古今雛…
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石田三成の実像2822 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」14 慶長3年11月3日付の八十島助左衛…

 中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」の中で、三成の「実行力・信頼感」を示す書状として、天正15年(1587)に、博多に出した9か条の定書が取り上げられていますが、それと関連して慶長3年(1598)11月3日付の八十島助左衛門宛博多津中書状も挙げられ、次のように現代語訳されています。 「(大意訳)博多は武士が入らな…
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旅行記207 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行2 徳島城本丸・天守跡は東二の丸・蜂須賀家政像・慶長の役の…

ホテルに泊まった翌日の2月22日に、まず駅の北側にある徳島城跡へ行きました。ホテルは駅の南側にあったので、線路をまたぐ歩道橋を渡りました。徳島城の石垣や堀などの遺構は残っているものの、天守などの建物は残っていません。   山の高さは61メートルで、山頂が本丸跡ですが、平坦でかなりの広さがあります。徳島市街が一望のもとに見えますし、眉山…
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石田三成の実像2821 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」14 実戦状況に関する白峰氏の考察5 戦わな…

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「小野和泉が申し上げた覚」による合戦当日(10月20日)の状況について…
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