テーマ:石田三成

石田三成の実像2683 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」38

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑬「慶長3年12月2日、加藤清正ら東目衆が博多に到着した」の中で、姜沆の「看羊録」の記述が史料として取り上げられ、「加藤清正・黒田長政らは、12月15日すぎに伏見に到着し、豊臣秀頼のもとへ伺候し、徳川家康へ戦果報告した」…
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石田三成の実像2682 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」37

  高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑬「慶長3年12月2日、加藤清正ら東目衆が博多に到着した」の中で、11月27日付の加藤家家臣の加藤喜左衛門尉・下川又左衛門尉宛加藤清正書状が取り上げられ、同日に、清正は「壱岐勝本に着岸し」、「領国肥後の内政について細か…
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石田三成の実像2681「歴史通」8 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」8

  「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「『家康を討つ!』西軍戦略の要衝にある上田城・真田を誘った熱意溢れる書状」」という題で、三成が挙兵した後の慶長5年7月30付で真田昌幸宛三成書状が取り上げられ、次のように解説されています。  東の…
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石田三成の実像2680  大河ドラマ「葵 徳川三代」6 家康暗殺計画

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、慶長4年9月、徳川家康が大坂城に入城した時、家康暗殺計画があったとして、前田利長や大野治長に疑いをかけるものの、それは家康自身が仕組んだ謀略であったという捉え方がされていました。利長が計画者とされたのは、利長と三成と通じていると考えられたからで、大野治長は淀殿と密通しているとの噂があったからだという描き…
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三成の実像2679「歴史道」7 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」7

「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「徳川の天下になっても三成の手紙を捨てなかった信幸」という題で、真田信幸宛三成書状が取り上げられ、「織田秀信の湯治の案内役を信幸の家臣に依頼したとする内容」だと説明されています。  中井氏の同書には、…
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石田三成の実像2677 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」36

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑫「慶長3年11月30日、石田三成は撤退の様子を島津龍伯にしらせた」の中で、その三成書状の内容について次のように記されています。  「明との和平交渉は、島津義弘主導によって成立しました。朝鮮在陣の諸将は、10月30日、…
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石田三成の実像2676  大河ドラマ「葵 徳川三代」5 五奉行の剃髪・三成の失脚後

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、徳川家康の婚姻問題の決着として、三成ら五奉行は剃髪して謹慎、家康は誓紙を五大老に提出したというふうに描かれていました。もっとも、五奉行の剃髪については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、謹慎という意味合いではなく、次のような見解が示されています。  「秀吉の遺言に従ったものとされるが、こう…
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三成の実像2675 「歴史道」6 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」6 

 「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「鷹狩についての愛情とこだわり、そして三成の意外な諧謔精神も垣間見える手紙」という題で、中納言宛三成書状が取り上げられ、その内容について次のように解説されています。  「進上する鷹の素晴らしさをこと…
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三成の実像2674 「歴史道」5 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」5   

 「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「所領加増を自ら辞退!『私』より『公』に徹した」という題で。慶長3年5月22日付の家臣の大音新介宛の三成書状が取り上げられていますが、その解説の続きです。  「三成自身も近江の小大名にとどまるか、鎮…
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三成の実像2673 「歴史道」4 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」4   

  「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「所領加増を自ら辞退!『私』より『公』に徹した」という題で。慶長3年5月22日付の家臣の大音新介宛の三成書状が取り上げられています。小早川秀秋が転封されたのに伴い、三成にその旧領である筑前筑後を秀吉…
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三成の実像2672 「歴史道」3 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」3   

 「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の「関白秀吉の意向に逆らっても忍城水攻め反対を直言した三成」の中で、秀吉が忍城を水攻めにすることに拘った理由として、次のように指摘されています。  「そこには一種の政治的思惑があったように思われる。水攻めは…
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石田三成の実像2671 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」35

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑪「慶長3年11月25日、黒田如水は徳川家康のもとに参上した」の中で、11月28日の家康の行動について次のように記されています。  「徳川家康は黒田長政から、『小西行長が順天を引き払った』という報告を受け、返書を書き送…
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石田三成の実像2670  大河ドラマ「葵 徳川三代」4 家康の薩摩邸訪問を糾弾?家康を討つ?

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、博多から伏見城に戻ってきた三成は、自分が博多にいた間に、家康が薩摩屋敷を訪れたことで島津義弘を詰問し、家康との間に約束事がないことを誓紙で明らかにするように要求する場面がありました。ドラマでは、この後、家康が義弘を詰問し、「三成に誓紙を出すなら、構えて、わしにも出してもらうぞ」と要求しています。  こ…
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石田三成の実像2669高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」34

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑪「慶長3年11月25日、黒田如水は徳川家康のもとへ参上した」の中で、同日の家康の動向について、次のように解説されています。  「徳川家康は、黒田如水と会い、朝鮮における状況の報告をうけました。また、黒田長政から贈り物…
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石田三成の実像2668  大河ドラマ「葵 徳川三代」3 博多で諸将に非難されるというフィクション

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、朝鮮半島から博多に戻ってきた諸将に対して、三成は伏見で慰労の茶会を催したいと言ったのに対して、黒田長政、藤堂高虎、加藤清正が三成を非難していましたが、三人とも朝鮮半島で戦って苦労していたという扱いでした。しかし、このうち、藤堂高虎は、朝鮮半島から撤兵するのに際して、浅野長政・石田三成・毛利秀元が博多に派…
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石田三成の実像2667 半年ぶりの伏見城跡巡り

18日に、大阪府立大手前高校で同僚だった人と、伏見城跡などを巡ってきました。3時間、途中休憩もなく案内しましたが、よく付き合っていただきました。この日のことは、フェイスブックの方でも、写真入りで記しています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大手筋通の店でま…
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石田三成の実像2666 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」33

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑪「慶長3年11月25日、黒田如水は徳川家康のもとへ参上した」の中で、10月27日付の黒田長政宛徳川家康書状、及び姜沆の「看羊録」の記述を史料として挙げられ、次のように解説されています。  「10月27日、伏見にいた徳…
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石田三成の実像2665 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」32

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑩「慶長3年11月18日、小西行長は順天を引き取った」の中で、その前後の状況について、次のように説明されています。  「11月12日付の注進状をうけとった寺沢正成は、釜山浦の守備を毛利吉成に命じ、南海へ向かいました。1…
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三成の実像2664 「歴史道」2 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」2   

 「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」が掲載され、まず「関白秀吉の意向に逆らっても忍城水攻め反対を直言した三成」という題で、天正20年6月13日付の浅野長吉・木村一宛三成書状が取り上げられていますが、その書状に関して次のように述べられています。 …
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石田三成の実像2663 大河ドラマ「葵 徳川三代」2 従来通りの対立の構図

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、初回拡大版で、関ヶ原の戦いから三成の処刑まで一挙に放送され、第二回以降、秀吉が死んだ時に遡って、その後の状況を丁寧に描いていくという手法が採られていました。  北政所(高台院)=家康VS淀殿=三成という従来通りの構図でしたが、それは司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の見方の踏襲と云えます。二年前に上映された…
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三成の実像2662 「歴史道」1 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」1   

 「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」が掲載されています。  まず「関白秀吉の意向に逆らっても忍城水攻め反対を直言した三成」という題で、天正20年6月13日付の浅野長吉・木村一宛三成書状が取り上げられています。 秀吉の北条攻めの際、忍城…
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石田三成の実像2661 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」31

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑩「慶長3年11月18日、小西行長は順天を引き払った」の中で、まず慶長3年10月19日付の加藤清正宛徳川家康書状、同日付の黒田長政宛家康書状、11月11日付の黒田長政宛寺沢正成書状が史料に取り上げられ、次のように解説され…
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石田三成の実像2660 大河ドラマ「葵 徳川三代」1 敗者三成にスポット

 岡田准一さん主演の映画「関ヶ原」がテレビで放送されました。この映画については、映画館で見た後、拙ブログで9回にわたって取り上げました(2017年10月)。  またBSプレミアムでは、2000年に放送された大河ドラマ「葵 徳川三代」が再放送されています。まず関ヶ原の戦いからドラマは始まりますが、大々的にロケが敢行され、合戦絵巻が再現さ…
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三成の実像2659 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」30

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑨「慶長3年11月3日、豊臣政権は島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価した」の中で、慶長3年11月8日付の島津義弘・島津忠恒宛近衛龍山書状が史料として取り上げられ、次のように解説されています。  「泗川…
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三成の実像2658 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」29

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑨「慶長3年11月3日、豊臣政権は島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価した」の中で、慶長3年11月5日付の島津家家臣の山田理安宛島津龍伯書状が取り上げられていますが、その書状には、泗川の島津義弘からの報告…
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三成の実像2657 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」28

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑨「慶長3年11月3日、豊臣政権は島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価した」の中で、同日付で島津義弘・島津忠恒に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大老連署状、前田玄以・増田長盛…
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三成の実像2656 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」27

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑧「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されていますが、その後の、博多にいた…
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石田三成の実像2655 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」26

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑧「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で在陣諸将宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されていますが、その五条目は次の通りです。 …
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石田三成の実像2654 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」25

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑧「慶長3年11月2日、石田三成は島津義弘・島津忠恒らに撤退のしかたについて指示をした」の中で、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた浅野長政・石田三成連署状が史料として取り上げられ、現代語訳されていますが、その三条目、四条目は…
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三成の実像2653 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」24

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑦「慶長3年10月30日、島津義弘らは朝鮮からの撤退を決意した」の中で、10月30日付で小西行長・立花親成・宗吉智・島津義弘が署名した「覚」が史料として掲載されていることは前述しましたが、その決定の知らせについて、次のよ…
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