テーマ:石田三成

石田三成の実像3117 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」129 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」1 家康の計らいに…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、直茂の生涯、及び佐賀藩について、まず端的に次のように記されています。  「鍋島直茂の生涯は主君龍造寺隆信の覇業を助け、隆信横死後は龍造寺家存続のために粉骨砕身尽力するものだった。結果的に龍造寺家を鍋島家が継ぐことになってしまったが、それは決して…
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石田三成の実像3116 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」128 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」7 大名復帰か…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、改易され浪人した盛親の動きについて次のように記されています。  「慶長6年(1601)には京都の伏見に『在宅』し、『身上』が定まっていない様子がうかがえる(『萩藩閥閲録』)。しかし、大名復帰に向けた再仕官活動を行っていたと思われる史料も確認で…
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石田三成の実像3115 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」127 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」6 土佐に戻…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、土佐に帰国した盛親の動きについて次のように記されています。  「盛親は当初、江戸方の追撃に備え、防備を整えていた。『給人、一人も残らず妻子共、召連れ当城(=浦戸城)へ』と命じつつ、『無足人(所領を給付されていない下層家臣)の事、手あしの立候も…
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石田三成の実像3114 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」126 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」5 敗戦を知り…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、南宮山(具体的には栗原山)に陣した盛親が大坂方(豊臣公儀方)の敗戦をどのように知ったのかは諸説あって判然としないことについて、次のように記されています。  「盛親の重臣、吉田孫左衛門が敵陣へ潜入して敗戦を知ったであるとか、敗走してきた島津軍…
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石田三成の実像3113 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」125 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」4 吉川広家の…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、盛親らは伊勢方面を攻めた後、美濃方面に移動して、南宮山に布陣しますが、そのことについて次のように記されています。  「盛親らの軍勢は慶長5年9月10日前後に南宮山(岐阜県大垣市ほか)の尾根沿い東南の栗原山に布陣したのだが、合戦の大勢が決する…
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石田三成の実像3112 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」124 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」3 伊勢攻めに…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの前に、盛親らは伊勢方面を攻めますが、そのことについて次のように記されています。  「長宗我部の軍勢は8月24日、毛利秀元、吉川広家、長束正家らの軍勢と合流、総勢3万余の軍勢で江戸方の富田信高、分部光嘉らが守備していた伊勢国(三…
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石田三成の実像3111 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」123 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」2 陣立書にお…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、慶長5年8月、盛親が大坂方(豊臣公儀方)として関ヶ原方面に出陣した時のことについて、次のように記されています。  「大坂方の布陣を記した陣立書には、『一 弐千百人 土佐侍従』(『慶長5年8月5日付真田昌幸宛石田三成書状』『備口人数』)とある…
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石田三成の実像3110 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」122 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」1 長兄の戦死…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、関ヶ原合戦以前の盛親の事績について、次のように記されています。  「長宗我部盛親は、四国をほぼ統一することになる長宗我部元親の四男として、天正3年(1575)に生まれた。本来、家督を相続する立場になかったが、長兄信親の戦死(天正14年[15…
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石田三成の実像3109 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」121 大西泰正氏「前田利長の戦い」14 戦後、利長…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、関ヶ原合戦後、利長の政治的存在感は著しく低下したことについて、次のように記されています。  「たとえば、九州の筑前福岡藩では、初代藩主黒田長政の時代、利長の書状は織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀長、徳川家康、徳川秀忠と一括りに保管されていた。だが、…
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石田三成の実像3108 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」120 大西泰正氏「前田利長の戦い」13 外岡慎一郎…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、一旦金沢に戻った利長の二度目の出陣について、次のように記されています。  「9月3日、『東軍』諸将が美濃まで進出したとの報せを受けた利長は、一両日中には小松方面に出撃することを黒田長政と藤堂高虎に仕えたが(『黒田家文書』)、実際の出陣は同月11…
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石田三成の実像3107 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」119 大西泰正氏「前田利長の戦い」12 外岡慎一郎…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、一旦金沢に戻った利長の二度目の出陣が手間取ったことについて、次のように記されています。  「能登一国を領する実弟利政が、正室が上方にいる(人質にとられている)ことなどを理由に出兵を拒否したらしい。ちなみに、9月5日に至って以上の理由を詳しく語…
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石田三成の実像3106 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」118 大西泰正氏「前田利長の戦い」11 外岡慎一郎…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、8月3日、大聖寺城を攻略したものの、その後、利長が一旦金沢に戻った理由について、「中川宗半(光重。利家の娘婿)から、敵方の大軍が海路をとって、金沢を襲う、という情報(書状)がもたらされ、それを信用した利長が背後をつかれてはたまらない、と軍勢を引…
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石田三成の実像3105 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」117 大西泰正氏「前田利長の戦い」10 外岡慎一郎…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、8月3日、大聖寺を攻略した後の利長の動きについて、次のように記されています。  「そのまま加賀、越前の国境を越えたが、伏見落城と越後における一揆の蜂起を知って軍勢を引き返した(『前田育徳会所蔵文書』ほか)。金沢城に戻る途上にあった8月9日、小…
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石田三成の実像3104 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」116 大西泰正氏「前田利長の戦い」9 外岡慎一郎氏…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、関ヶ原大乱の際、利長は家康側に付いていたことが具体的に述べられていますが、大乱のきっかけとなった家康による会津攻めの際には、利長は「最上義光を先手として出羽米沢(山形県米沢市)へ進出、北方から上杉方に攻めかかる手筈であった(『歴代古案』)」と記…
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石田三成の実像3103 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」115 大西泰正氏「前田利長の戦い」8 芳春院が江戸…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、家康と利長の講和が最終的な決着を見たのは、慶長5年5月と考察されています。そのことについて、次のように記されています。  「上方にいた亡き利家の正室芳春院や、利長の有力家臣横山長知や前田長種らから差し出された人質が江戸へ下り、その代わりであろ…
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石田三成の実像3102 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」114 大西泰正氏「前田利長の戦い」7 家康による前…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、家康が「加賀征伐」の態度を示したり、軍事行動を発令したりしたという事実は同時代史料からは確認できないと、否定されています。そういう俗説の出所について、山鹿素行の著書「武家事紀」が挙げられ、大西氏の同書では次のように記されています。  「延宝元…
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石田三成の実像3101 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」113 大西泰正氏「前田利長の戦い」6 家康によって…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、慶長4年9月以降、家康によって豊臣政権か ら排除された利長と家康の関係の極度の悪化について、次のように記されています。 「9月27日、通路の封鎖を聞いた利長は、越後の大名堀秀治に対し、家康が何かこの利長を疑っているのか、どういう事情…
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石田三成の実像3100 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」112 大西泰正氏「前田利長の戦い」5 家康による豊…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、三成が奉行職を解かれて佐和山に引退した後の利長の動きについて、次のように記されています。  「慶長4年(1599)の8月、利長は大坂を離れて北陸へ帰国した。帰国の理由も詳しい月日も定かでないが、上方で政変が起こったのはその直後である」と。 …
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石田三成の実像3099 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」111 大西泰正氏「前田利長の戦い」4 大老としての…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、「大老」に昇格した利長の負担が大きすぎたと指摘されていますが、そのことについて、次のように記されています。  「徳川家康が、自身を引き立てると述べたことを、利長は利家生前の3月24日、江戸の徳川秀忠(家康の後継ぎ)への書状のなかで語った(『服…
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石田三成の実像3098 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」110 大西泰正氏「前田利長の戦い」3 利長が大老に…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、前田利長が「大老」に昇格した時期について、次のように考察されています。   「慶長4年3月13日、利長の妹婿である『大老』宇喜多秀家が、同じく『大老』の徳川家康宛てに起請文を作成し、そのなかに家康と利長が協力して尽力するならば、自身(秀家)もま…
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石田三成の実像3097 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」109 大西泰正氏「前田利長の戦い」2 利家死後の領…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の中で、前田利家没後の、前田氏の状況について、次のように記されています。  「前田氏の領国三ヵ国は、利家の死後、その領地(加賀二郡)を受け継ぎ、越中とあわせて支配する利長と、能登を領する利政との兄弟による支配体制に移行した。だが、二人はともに豊臣政権…
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石田三成の実像3096 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」108 大西泰正氏「前田利長の戦い」1 実体以上に誇…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「前田利長の戦い」の冒頭、利長に対する評価について、次のように記されています。  「筆者はこの章の主人公の発給文書を1600通程度確認、整理したが、晩年の筆まめなところを除けば、さほど個性的な人物ではない。不器量ともいえないが、明治維新まで連綿として続いた加賀藩とそ…
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石田三成の実像3095 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」107 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」12 関ヶ原の…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、関ヶ原の戦いで生き残った吉継の子や家臣について、次のように記されています。  「大谷大学助は大坂の陣では豊臣方に参じ、真田信繁のもとで戦い戦死したと伝える。寺田はこのとき京極の陣にあったことになる。また関ヶ原での寺田の行動について、寺田ととも…
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石田三成の実像3094 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」106 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」11 敦賀城の…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、吉継の家臣で、関ヶ原の戦いには参加しなかった者について、次のように記されています。  「軍記類には、木ノ芽峠の守備にあてられていた岩根伝五郎、近江国境に向かう『七里半(街道)』の備えとして疋田、日置の名がみえる。『目録』に名があるのは岩根の…
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石田三成の実像3093 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」105 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」10 家臣の…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、吉継の家臣だった寺田久左衛門について、次のように記されています。  「敦賀支配にかかる行政文書にその名がみえ、『目録』では三百余石の領知である。寺田の妻は、長岡(細川)忠興の正室(秀林院、ガラシャ)に仕えた女房『おく』である。会津出陣中…
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石田三成の実像3092 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」104 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」9 吉継を介錯…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、関ヶ原での戦いで吉継を介錯しその首を隠したとされる、家臣の湯浅五助について、次のように記されています。  「五助は軍記類にしか現れない人物で、吉継及びその周辺で授受された文書類に五助の名を見いだすことはできない。奥羽仕置の後、吉継は越前国内…
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石田三成の実像3091 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」103 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」8 吉継や家臣…

  白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、関ヶ原での戦いでの吉継及び家臣たちの最期について、次のように記されています。  「関ヶ原合戦に取材した軍記類の多くが吉継最期の場面を感動的に描き、あわせて合戦で討死した大谷吉継の家臣たちの交名(名簿)を掲げ、その誉れを称えている。軍記に…
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石田三成の実像3090 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」102 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」7 藤堂隊など…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、吉継の関ヶ原での戦いについて、従来からの通説とは違って、次のように記されています。  「大谷軍の主力は野戦に臨んだのである。また、小早川秀秋も反転の意思を明らかにして松尾山から攻め下ったのではなく、すでに大谷軍が野戦に臨む態勢を整えた…
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石田三成の実像3089 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」101 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」6 8月1日付…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、吉継が伏見城攻めの最中の、7月28日に島津義弘に招かれたことは前述しましたが、その直後の吉継と義弘について、次のように記されています。  「翌29日の朝、義弘の使者が吉継のもとに遣わされたが、吉継は沈酔を理由に使者には応対せず、詫びの書状を…
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石田三成の実像3088 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」100 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」5 伏見城攻め…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、吉継が伏見城攻めの最中に、島津義弘に招かれたことについて、次のように記されています。  「落城間近の7月28日の夜、吉継は島津義弘に招かれ大酒に及んだようだ。義弘は朝鮮出兵から帰還した後、薩摩に戻ることもなく政変に巻き込まれていた。当初は警…
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