テーマ:石田三成

石田三成の実像3036 大阪探訪58 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連…

 2006年に行なった大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、大阪カテドラル聖マリア大聖堂を見た後、最後にその近くにある「越中井」まで生徒たちを案内しました。「越中井」は、秀吉時代、大坂の細川屋敷の台所にあったとされる井戸です。そのそばに建っている説明掲示板には、関ヶ原の戦いの二ヶ月…
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石田三成の実像3035 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」52 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」3 秀吉没後の家康…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、秀吉の死の直後、家康と三成ら奉行衆の間に対立があったことが記されていますが、その対立の根深さを克明に伝えるものとして、8月28日付の浅野長政以外の四奉行に宛てた輝元の誓約書状の他に、9月2日付の毛利家家臣の書状が挙げられ、次のように記されていま…
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京都探訪332 西本願寺で1年半ぶりに友人と会う・本願寺内部の対立は、信長の本願寺攻めの時から始まっていた

大学時代からの友人N君(40年前に一緒にフランス旅行をした友)と、1年半ぶりに会いました。彼は福山で寺の住職をしており、西本願寺ブックセンターで経典をまとめて購入するために京都まで出て来たので、西本願寺(写真)で待ち合わせをしました。一緒に昼食を取ったあと、東本願寺に立ち寄ってさらに渉成園を見学し、喫茶店でゆっくり話しました。京都…
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石田三成の実像3034 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」9 「石田三成書状展」3 豊臣秀吉行状絵伝…

 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」の際に、開かれていた「石田三成書状展」には、書状の他に、「豊臣秀吉行状絵伝一巻」も展示されていました。  江戸時代後期から明治初期に書かれたと思われるもので、文字通り、秀吉の一代記が描かれた絵巻物です。展示されていたのは、秀吉(日吉丸)が誕生する場面から、信長に見参する場面、桶狭間の戦…
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石田三成の実像3033 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」51 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」2 四奉行に宛てた…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、秀吉の死の直後、家康と三成ら五奉行の間に対立があったことが記されていますが、その対立の根深さを克明に伝えるものとして、8月28日付の浅野長政以外の四奉行に宛てた輝元の誓約書が挙げられています。この誓約書については、光成準治氏の先行研究があるとこ…
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石田三成の実像3032 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」8 「石田三成書状展」2 天正19年6月2…

 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」の際の「石田三成書状展」に展示されていた、二通の天正19年(1591)10月8日付の佐藤貞信宛三成書状と文禄5年(1595)7月12日付の佐藤貞信宛三成書状ですが、前者の書状が自筆書状であるのに対して、後者の書状は右筆が書いたものです。その大きな違いは、自筆書状は、ひらがなが多用している…
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石田三成の実像3031 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」50 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」1 「お飾り」では…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、はじめに輝元「西軍の総大将」像が以前とは塗替わりつつあることが述べられています。  今までの輝元の評価が芳しくなかったが、それは「輝元が三成らによって祭り上げられた『お飾り』のような総大将だったから、というような見方が根強かったためである」、…
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石田三成の実像3030 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」7 「石田三成書状展」1 文禄5年7月12…

 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」の際に、合わせて「石田三成書状展」が開かれていましたが、展示されていたのは、中井俊一郎氏が講演会で取り上げられていた、二通の天正19年(1591)10月8日付の佐藤貞信宛三成書状だけでなく、文禄5年(1595)7月12日付の佐藤貞信宛三成書状もありました。  その書状について、図録には…
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京都探訪331 2年ぶりの醍醐寺の桜・「豊太閤花見行列」は今年も中止・三成の兄の正澄に扮した人が行列に参加・秀吉の…

  3月31日、醍醐にある皮膚科に通院する前、醍醐寺に少し立ち寄りましたが、はや花が散りかけている桜の木もあり、全体的に満開の時期はやや過ぎているという印象を持ちました。人出はありましたが、それほど混んではいませんでした。二年ぶりに見た醍醐寺の桜です。家から歩いて30分程の距離にあります。  「豊太閤花見行列」は、昨年に続いて、今年も…
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石田三成の実像3029 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」49 本間宏氏「上杉景勝の戦い」27 景勝にとって、…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、上杉景勝にとって、慶長5年から6年にかけての戦いとは何だったのかについて、次のように記されています。  「徳川家康も、他の大老・奉行衆連合軍も、豊臣政権の秩序を守るという大義名分を標榜していた。つまり『関ヶ原』とは、豊臣政権内における徳川家康の…
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石田三成の実像3028 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」6 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、三成が鷹狩りマニアであることを示す中納言宛三成書状の宛所である中納言が、秀次の可能性もあることにも触れられていましたが、そうだとすると、文中に出てくる「今度の道中同行した城州(山城守)」の「城州」が誰であるかは、まだ推定できず、蒲生家中にそういう人物かいないか検討中だ…
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西笑承兌が大光明寺を再興する際の「伏見大光明寺勧進帳」・承兌が明の国書を読み上げた時に秀吉が激怒したというのは創作…

 相国寺承天閣美術館で開催中の展覧会に、「伏見大光明寺勧進帳」が展示されています。僧・西笑承兌(せいしょうじょうたい)が大光明寺を再興するため、諸堂を建築する工費を寄進した武将たちの花押を集めたもので、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝など122名の武将の名がずらりと並んでいます。秀吉は方丈を寄進しています。秀吉は大光明寺があった地付近に指月…
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石田三成の実像3027 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」48 菅原義勝氏「最上義光の戦い」6 義姫(保春院)…

 伊達政宗の母は、最上義光の妹の義姫(保春院)ですが、以前は、義姫が政宗を毒殺して、政宗の弟の小次郎を跡継ぎにしようとしたが、失敗し小次郎は政宗によって殺されたというふうに思われてきましたし、大河ドラマ「独眼竜政宗」でもそのように描かれていました。ところが、このことについて、白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝…
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千田嘉博氏「お城探訪 小牧山城」 信長は小牧山城からの上洛を計画・天下も視野に入れた信長の特別な城・帯曲輪に玉石敷き

 朝日新聞に連載中の千田嘉博氏の「お城探訪」の「小牧山城」で、信長は小牧山城主だった永禄9年(1566)に、足利義昭のお供をして上洛する予定だったことが述べられていました。信長が斎藤氏から美濃の岐阜城を奪取して新たな居城とする前年のことで、実際に信長が義昭を助けて上洛したのは永禄11年のことです。永禄9年に、信長は小牧山城から美濃を避け…
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石田三成の実像3026 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」6 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、10月8日付の佐藤貞信宛三成書状について、まとめとして「当時、奥州情勢はまだ落ち着いていない」、「岩城家中は貞隆への権力移行が完了しておらず、親佐竹派とそれ以外の勢力で緊張感が続いていた」、「伊達仕置も最終段階に入っており、岩城家を佐竹側・豊臣政権側へしっかり組み入れ…
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石田三成の実像3025 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」47 菅原義勝氏「最上義光の戦い」5 諸城の奪還後、…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で、上杉勢が撤退した後の最上義光の動きについて、次のように記されています。  「義光は直江軍の追撃を行うとともに、上杉方によって占領されていた諸城の奪還を図っている。白岩、寒河江、左沢からは、10月1日時点で何人もの敵兵を討ち果たしたという報告が…
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石田三成の実像3024 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」5 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、10月8日付の佐藤貞信宛三成書状の謎を解く手かがりとして、10月9日付の四倉下野守(佐竹家重臣)宛白土隆良(岩城家重臣)書状が取り上げられています。この書状は従来、天正18年のものと考えられてきましたが、内容から見て、天正19年のものだと中井氏は指摘されています。そう…
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石田三成の実像3023 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」46 本間宏氏「上杉景勝の戦い」26 佐藤貴治氏「伊…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、「9月晦日、関ヶ原での大勝を伝える家康書状が政宗に届いた」と記されています。そうだとすれば、伊達政宗が上杉側より早く関ヶ原の戦いの結果を知ったことになります。しかし、これはある意味、当然のことであり、勝者はいち早く知らせを仲間に届ける傾向にあるの…
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石田三成の実像3022 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」4 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、天正19年10月8日付の佐藤貞信宛三成書状の謎として、次のような点が挙げられていました。  まず「鉄砲隊の同行を要請している」ことについて、まだ「不穏な状況だったのか」、「奥州情勢はまだ緊迫していたのか」「岩城家中の状況はどうだったのか」という疑問点が挙げられていま…
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石田三成の実像3021 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」45 兼続に関ヶ原の戦いの報が入ったのはいつ? 菅原…

 最上攻めをしていた直江兼続のもとに、関ヶ原の戦いの報が入ったのはいつのことでしょうか。  白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で、「(9月)29日、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたとの報が兼続のもとへ届けられた」と記されています。  一方、この点について、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の…
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石田三成の実像3020 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」3 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 「三成の戦 拾」のイベントとして行われた、オンライン三成会代表の中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」で取り上げられていた三成書状は、天正19年(1591)10月8日付と推定される、岩城家重臣の佐藤貞信に宛てた2通の書状です。  その時、三成は三春(福島県三春町)におり、2日後に岩城平(福島県いわき市)にいる貞…
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石田三成の実像3019 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、大坂夏の陣で再会した荻野河内について考察されていますが、その続きで、次のように記されています。  「『惣右衛門覚書』には、本城惣右衛門が荻野河内という人物と大坂の陣で再会して、昔の首取りの話を語り合う場面が記…
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旅行記247 石田三成の実像3018 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」2 三成書状の所蔵者の方と出…

南彦根のホテルは朝食付きでしたが、バイキング(ビュッフェ) 形式で、手を消毒した上、料理を取る時はマスクを着用してビニールの手袋をしなければならず、食べる時だけマスクを外せました。席も離してありましたし、感染防止対策はよくされていると思いました。  チェックアウト後、平和堂で買物をしてから、荷物を南彦根駅のロッカーに預け、またひ…
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石田三成の実像3017 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」44 菅原義勝氏「最上義光の戦い」3 長谷堂合戦の概…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で、関ヶ原の戦いと同日の9月15日に開始された、上杉軍と最上軍の間の長谷堂合戦について、次のように記されています。  「長谷堂城には志村光安が立て籠もっていた。直江軍の上泉泰綱は、長谷堂城を守る志村勢の様子を次のように述べている。『鉄砲を主とした布…
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旅行記246 石田三成の実像3016 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」1 1年ぶりの宿泊・初日は演…

  南彦根のホテルに一泊し、3月13日、14日にひこね市文化プラザで行われた、「三成の戦 九」「三成の戦 拾」を見に行ってきました。一年ぶりの宿泊です。  昼前に南彦根駅に着き、まず駅近くのホテルに荷物を預けました。昼食はコンビニで幕の内弁当を買って、駅のベンチで食べました。今回はコロナのこともあって、飲食店で食事をすることは一回もあ…
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石田三成の実像3015 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」に記載されている荻野河内という人物について考察されています。  まず同「覚書」には、「本城惣右衛門が荻野河内という人物と大坂の陣で再会して、昔の首取りの話を語り合う場面が記されている」、「…
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石田三成の実像3014 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」43 本間宏氏「上杉景勝の戦い」23 菅原義勝氏の「…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年9月に始まった直江兼続による最上攻めの経緯について、次のように記されています。 「最上義光の時間稼ぎは続いた。兼続は武力行使を決断し、9月8日に米沢城からの先発隊を出陣させた(『清野文書』【上杉家記】)。翌9日には自身も出陣し、9月13…
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大阪探訪57 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」、旧真田山陸軍墓地を見た後、歩いて大阪カテドラル聖マリア大聖堂まで生徒たちを案内しました。この大聖堂は、秀吉時代、大坂の細川屋敷があったところで、関ヶ原の戦いの二ヶ月前、細川ガラシ…
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石田三成の実像3013 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、指揮を受ける部将が変わったことについて考察されていますが、その続きです。  「天正12年までの戦いでは、本城惣右衛門は出身地の丹波国関係の部将の指揮下で戦っていた。しかし、それ以後、天正13年の紀州討伐では羽…
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石田三成の実像3012 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」42 本間宏氏「上杉景勝の戦い」22 兼続は高圧的な…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年9月4日付で直江兼続が記した書状について、次のように記されています。 「9月4日、兼続は若松城の甘糟景継に宛てた返書において、最上氏から『少々懇望の儀』があったので最上領への軍事行動を延期したが、2、3日中には決着するだろうと伝えている…
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