テーマ:大阪探訪

石田三成の実像3036 大阪探訪58 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連…

 2006年に行なった大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、大阪カテドラル聖マリア大聖堂を見た後、最後にその近くにある「越中井」まで生徒たちを案内しました。「越中井」は、秀吉時代、大坂の細川屋敷の台所にあったとされる井戸です。そのそばに建っている説明掲示板には、関ヶ原の戦いの二ヶ月…
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大阪探訪58 四天王寺の阿弥陀堂で見つかった霊獣「白沢」 中国ドラマ探訪1 神話ファンタジー「運命の桃花」にも登場…

 浪人時代、運動不足解消のため、毎朝走っていた四天王寺の境内のコースに、阿弥陀堂の前の道も入っていました。その阿弥陀堂で、霊獣「白沢(はくたく)」と見られる彫刻が最近、見つかったという記事が新聞に載っていました。  「白沢」は病魔を退散させる力をもつ中国伝来の霊獣とされ、日本では人面獣身で九つの目がある姿に描かれるのが一般的であること…
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大阪探訪57 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」、旧真田山陸軍墓地を見た後、歩いて大阪カテドラル聖マリア大聖堂まで生徒たちを案内しました。この大聖堂は、秀吉時代、大坂の細川屋敷があったところで、関ヶ原の戦いの二ヶ月前、細川ガラシ…
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大阪探訪56 朝日新聞の「まだまだ勝手に関西遺産」の「大阪発祥『ビー玉』」 語源はポルトガル語かB玉かフランス語か…

  子供の頃、ビー玉でよく遊んでいましたし、集めてもいました。色や模様のきれいな気に入ったビー玉は宝物みたいなもので、住んでいた長屋の突き当たりにある小学校と幼稚園の境の壁にあった隙間を、隠し場所にして入れていたこともあります(写真のあたりですが、今はそういう隙間はありません)。長屋の前や周辺の地面はまだ舗装されていず、土だった時代です…
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大阪探訪55 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」を少し登ったところにある、旧真田山陸軍墓地にも生徒たちを案内しました。明治時代以後の、兵士たちの墓が5000余り並んでいます。しかも、亡くなった時の階級に応じて、墓の場所が違ってい…
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大阪探訪54 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣関連遺跡めぐり」ですが、地下鉄で玉造駅に出て、真田山の三光神社にある真田信繁(幸村)の銅像とそのそばにある「真田の抜け穴」に案内しました。「真田の抜け穴」は、最近はよくテレビなどで紹介されますが、そういうものがあると知ったのは、これも桂米朝さんの…
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大阪探訪53 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」ですが、一心寺の北にある清水寺(新清水)にも足を伸ばしました。ここは関連遺跡ではありませんが、生徒たちもほとんどその存在を知らないのではないかと思って案内しました。かく言う私も、桂米朝さんの「米朝ばなし 上方落語地図」(毎日新…
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大阪探訪52 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」ですが、 一心寺の道路をはさんですぐ北側にある安居神社を訪ねました。真田信繁(幸村)が大坂夏の陣で家康本陣に襲いかかり、一時は家康を追い込む活躍を見せるものの、多勢に無勢で戦死したとされる場所で、生徒にもそのように話しました…
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大阪探訪51 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」ですが、茶臼山から歩いてすぐの一心寺を訪ねて、境内にある大坂夏の陣で亡くなった本多忠朝(忠勝の次男)の墓にお参りしました。忠朝は大坂冬の陣で酒を飲み過ぎたせいで、不覚を取り、敗走したため、夏の陣では汚名を挽回しようと、攻めか…
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大阪探訪50 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 大阪府立大手前高校の「集中セミナー」で、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」という講座を担当し、22名の希望生徒を引率してめぐったのは2006年のことですが、半日のコースだったので、ごく一部しか回れませんでした。天王寺に集合して茶臼山、一心寺、安居神社、清水寺(新清水)の玉出の滝(ここは関連遺跡ではありませんが、生…
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大阪探訪49 四天王寺の安政地震津波碑・境内は子供の頃の遊び場で昆虫採集したところ・浪人時代は朝にランニング

   朝日新聞の「いにしえナビ」のコーナーで「四天王寺の安政地震津波碑」が紹介されていました。1854年11月4日、5日に発生した、安政東海地震、南海地震の際、大坂にも大津波が押し寄せ、死者は1万人にのぼったという説もあるということです。翌年に32人の町人らが、犠牲者を追悼し「海鳴があったり潮の干満が乱れたりした時には、津波の前兆と考…
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大阪探訪48 番組「ニッポン不滅の名城 『大坂城』」2 徳川時代の大坂城は西国支配の拠点・内堀の一部を埋め立て本丸…

 NHKの番組「ニッポン不滅の名城 『大阪城』」で、徳川秀忠が秀吉の大坂城を埋め立てて、新たな大坂城を作った理由について、秀吉の痕跡を消し去るためだけではなく、大坂城を西国支配の軍事拠点とするためでもあり、さらには秀忠が隠居した後、大坂城に住むことも考えていたと城郭考古学者の千田嘉博氏が説明されていました。それを示す小堀遠州の書状が最近…
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大阪探訪47 番組「ニッポン不滅の名城 『大坂城』」1 秀吉時代の大坂城のメインストリートは大手前高校グラウンドの…

秀吉時代の大坂城の天守は、今の大阪城の天守閣の北東に建てられていました。NHKの番組「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城 『大阪城』」で、そのことに触れられていましたが、その際、「ブラタモリ」で有名になった京都高低差崖会崖長の梅林秀行氏が、大阪府立大手前高校のグラウンドの北側の道に立って、この道が豊臣時代の城下町のメインストリー…
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緊急事態宣言下、母の代理で受診2 以前は「一心」で母、妹と一緒に通院前に昼食・済生会野江病院との縁

 済生会野江病院での代理受診は午後からだったので、妹と病院の近くにあるうどん屋「一心」で昼食を取りました。母が歩ける時は、3人一緒にこの店で昼食を取っていたのですが、車椅子になってからは、この店で昼食を取ったのは一度だけでした。車椅子は店の外に置かねばならなかったためです。それからは母は施設で昼食を取り、われわれは施設近くの店で食べ、そ…
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緊急事態宣言下、母の代理で受診1 城東川(運河)沿いに済生会野江病院まで歩く 

 大阪の済生会野江病院で母の乳がんの診察を半年ごとに受けているのですが、本来なら本人を連れて行かなければならないものの(エコー写真を撮った上で、ホルモン剤を処方してもらっています)、1月の診察は緊急事態宣言が出されている状況で、94歳の高齢で足腰が弱り車椅子で連れていかなければならず、外出すれば感染リスクが高まるということもあって、担当…
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ドラマ探訪46 「おちょやん」のモデルとなった浪花千栄子さんが演じていた「細うで繁盛記」の祖母・花登筺氏の原作を天…

 朝ドラ「おちょやん」のモデルとなっている浪花千栄子さんの演技で、一番印象に残っているのは、かつて読売テレビで放送された「細うで繁盛記」のヒロイン、加代の祖母役でした。祖母は大阪の料亭「南地楼」の女将で、加代に商いの心得、経営の精神というものを加代に教え、加代は祖母の言葉を胸に刻んで、熱川温泉の旅館「山水館」の主人に嫁ぎ、数々の苦難を乗…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策11 ラッシュ時は満員だった阪堺電車・子供の頃から馴染み深かった大阪市電・…

 阿倍王子神社から安倍晴明神社の道は、熊野街道の一部で、その雰囲気が今もなんとなく残っています。安倍晴明神社のすぐ近くに阪堺電車の東天下茶屋駅があり、そこから電車に乗って天王寺に戻りました。  阪堺電車は、大阪で唯一残る路面電車であり、子供の頃から大阪市電に馴染みが深かった自分にとっては、ノスタルジーを誘われる電車です。天王寺区の椎寺…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策10 安倍晴明神社・晴明の生誕地という伝承・「葛乃葉」「信太妻」伝説

 安倍晴明神社を訪ねたのもほぼ40年ぶりです。ここが安倍晴明の生誕地という伝承があり、「安倍晴明伝承地碑」も建っています。境内には、本殿、安倍晴明の銅像、晴明の母という伝説がある白狐の像、白狐が変身した女性「葛乃(の)葉」の絵、晴明の産湯の井跡などがあります。小さな神社であったという記憶がありますが、その通りでした。  「葛乃葉」は、…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策9 熊野王子社の一つとなった阿倍王子神社・同じ年に入った教員同士の結びつき

 阿倍野の鎮守の社である阿倍王子神社を訪ねたのはほぼ40年ぶりのことです。なにしろ住吉高校に転任した時に、社会科の先生に案内されて行って以来ですから。  この神社は仁徳天皇によって創建されたとも、阿倍野の地を本拠としていた古代の豪族「安倍氏」が創建したとも言われています。平安時代になり、熊野信仰が盛んになると、この場所が四天王寺と住吉…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策8・旧制大阪高校跡・よく通っていた店は見当たらず・「雲海」でランチ・北畠公…

  晴明丘公園を東に歩いて行くと、あべの筋に突き当たりますが、そのあたりは大正時代に創立された旧制大阪高等学校があったところで、現在、跡碑が建っています。この近辺、今はスーパーやマンションが建っており、当時と雰囲気は変わっていました。旧制大阪高等学校は、後に大阪大学に包括されました。   このあたりにあった飲食店で、住吉高校勤務当時は…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策7 北畠顕家と北畠親房が祀られている阿部野神社・同人誌発行のための初会合を…

 阿倍野区北畠の地名は、南北朝時代に南朝方として活躍し、若くして戦死した北畠顕家にちなみます。あべの筋沿いにある北畠公園に顕家の供養塔があり、住吉高校の西にある阿部野神社に、北畠顕家とその父親の北畠親房(「神皇正統記」を書いたことで有名です)が祭神として祀られています。住吉高校に勤めていた当時は、阿部野神社にお参りしたことはありませんが…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策6 よく昼食を取りに行っていた相生通の店はほとんど残っていず・今もレトロな…

住吉高校は、住宅街の中にあるので、飲食店が近くにありません。そのため、在任当時、昼食は専ら校内食堂で取っていましたが、土曜日などは授業が昼までなので、同僚と外に食事に行くことがよくありました。行くとするなら、北西の相生通へ行くか、東のあべの筋の方に出るかのどちらかでした。今回、どちらの方面へも回ってみましたが、まず相生通の方へ行きました…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策5 当時の周辺住民からの苦情・「闇チャリ」という言葉・西隣は今は空き地

 大阪府立住吉高校の周辺の回りを歩いて一周してみましたが、在任当時、教員親睦のテニスをしている時、2コートしかないため、ダブルスの試合で8名までしかできず、人数が多いと待たねばならなりませんでした。冬場はその間寒いので、学校の回りを同僚とランニングして一周していました。   写真は校舎の南側を撮ったものです。高校は当時から住宅街の中…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策4 卒業式で君が代が流された際、教職員や生徒が退出した時代・卒業証書をハン…

 いわゆる国旗・国歌法ができたのは、1999年のことですが、それより数年前に卒業式に日の丸を掲揚し、君が代を流すという問題で、住吉高校も混乱したことがあります。校長が文部省や教育委員会の意向を受けて、教職員や生徒に強制してきました。大半の教職員や生徒の自治会、生徒の部落解放研究会などが反対し、校長交渉をしたにもかかわらず、校長は強行しま…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策3 創立60年記念に建てられた伊東静雄の詩碑・旧制中学教員当時の伊東・同人…

 大阪府立住吉高校の旧正門と正門の間ぐらいに、伊東静雄の詩碑が建っています(「住吉の森」と呼ばれる木立の中)。コロナ禍で校内には入れないので、柵越しに写真を撮りました。  碑には「わが死せむ美しき日のために 連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を消さずあれ」で始まる「曠野(こうや)の歌」と題する詩が刻まれていますが、創立60年記念に建立され…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策2 スポーツや読書会・同人誌発行などを通じた教員の親睦・高津高校と同じよう…

写真は住吉高校の正門です。旧正門(1昨日の写真)から西に少し行ったところにあります。正門を入って右側(西側)が理科棟、左側が体育館(一階は下足室)、奥が玄関、本館です。この景観は、当時とほとんど同じです。    正門の北側に道を挟んで北グラウンドがあり(もっと大きな東グラウンドは校舎のそばにありますが)、部活動の部室も建っています。…
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20数年ぶりの大阪府立住吉高校の周辺散策1 レトロな電停の雰囲気も校舎の様子もあまり変化なし・赴任する前に校長・教…

  大阪府立住吉高校の周辺を20数年ぶりに散策してきました。天王寺から阪堺電車に乗り、北畠駅に降り立った時から、周囲の様子は当時とあまり変わっていなかったため、時が戻ったようで、懐かしさに駆られました。レトロな電停の雰囲気と云い、そのすぐそばの道を西に入ってゆくと、すぐ左側に校門や校舎が見えるところと云い、道の右側にテニスコートが二面並…
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大阪探訪46 備前島があったあたりを散策5 大坂冬の陣では徳川方が大砲を放つ・リニューアル工事中の藤田美術館・「曜…

備前島は、大坂冬の陣の際、徳川方が大砲を据えて、大坂城に砲撃を加えたところです。砲撃は四日間にわたって行われ、そのうちの一発が城の一部を破壊し、淀殿の侍女七、八人が亡くなりました。豊臣側はこれに恐れをなして、和平に応じました。豊臣政権を支えた宇喜多秀家や石田三成の屋敷があった備前島(大坂城の北の守りを固めていました)から、徳川方が豊臣家…
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大阪探訪45 備前島があったあたりを散策4 大阪市立桜宮小学校の「創立80周年記念誌」に400年前の備前島の地図・…

 大阪市立桜宮小学校が昭和61年に発行した「創立80周年記念誌 わたしたちの町 桜宮」の中に、今から約400年前の都島区の地図が掲載されていますが、三角形のような形をした備前島が載っています。すぐ北に野田村があり、備前島に行くには、南から京橋、備前島橋を渡って行くか、東側から野田橋を渡るか、西側から川崎の渡しを舟で渡る方法があったようで…
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大阪探訪44 備前島があったあたりを散策3  今はレストランと結婚式場になっている旧大阪市公館 付記・大阪都構想雑感

 藤田邸の西邸だった旧大阪市公館は、最初は迎賓館、大阪市長公館として建てられましたが、橋下市長の時代に、民間に貸与され、今はレストランと結婚式場になっています。チャペルの中ものぞいてきました。ちょうど、若いカップルが下見に来ていました。コロナ禍で結婚式も挙げるのが大変な状況になっていますが、めげずに新たな門出を飾ってほしいものだと感じま…
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